葵マガジン 2020年03月28日号

  • 2020.03.31 Tuesday
  • 18:20

JUGEMテーマ:小説/詩

 

◇◆◇◆聡明鬼◆◇◆◇


第93話 見たものと聞いたもの(全100話)

 

 邪悪なる爪が、束ねていた髪を解き掴み引きちぎろうとする。
 斬妖剣にてその手ごと斬り飛ばす。
 すぐに次の爪が踊りかかってくる。
 縦に二分する。
 次の爪、返す剣で切り裂いてゆきその先にある鬼の首ごと刎ねる。
 剣は次第に重くなる。
 鬼を斬ったところで血を吸うわけではないけれども、邪気とでも呼べる禍々しき妖の匂いがまとわりつき、重なってゆくのだ。
 リンケイの腕にも脚にも、背にも首にも、鬼どもの邪悪なる爪が次々に伸びて来、食い込んでくる。
 陽世にいた頃と大いに違うのは、ここ陰鎮鷲椶任瞭い――或いはこれほどまでに大勢の敵との闘い――においては、思う様高く跳び地を蹴り剣を振り切ることが叶わぬという、窮屈な闘い方を強いられるということだった。
 それはいわば、呼吸が思うように出来ぬことと同じであった。
 思う存分、大気を肺に吸い込むことが出来ぬ、そういった状態において生死を賭した機敏なる動きをせねばならぬという事だ。
 予測を遥かに上回る、これは過酷な闘いであった。
 それを想うリンケイはだがやはり、そのことを面白きこととして受け入れるのだ。
 ――なるほどな。
 心の裡で、頷く。
 陰鎮鷲椶帽圓たがる自分を「趣味の悪い」と言い捨てていた聡明鬼、リューシュンを思い出す。
 確かにこれを面白いと想うのは、趣味が悪いと謗られても仕方のなき事であろう。
 その、リューシュン。
 今はどこで、何をしているのか。
 否、どこで鬼どもと闘っているのか。
 ――それとも、テンニと対峙しているかな。
 リンケイはそう想う。
 リューシュンの方が先に、テンニと相見えているのかも知れない。
 それならば、是非とも自分も共にその場へ馳せ参じたいところだ。
 この尽きることなき鬼どもの爪を討ち払い、諸悪の根源たるテンニの打鬼棒をリューシュンと共に討ち砕きたい。
 ――龍馬の助けも頼めぬ所だからな。
 リンケイはまたそうも想う。
 そう、陽世にて敵と闘う時には、リョーマが背後から魔焔を吹き有象無象を焼き尽くしてくれていたのだ。
 今は、その助けがない。
 その時突然、一頭の龍馬の姿が浮んだ。
 はっ、と目を見開くが、刃の動きを止めることはできない。
 剣を振りながらリンケイは、一瞬脳裏を過っていったその姿を今一度思い起こそうとした。
 ――この、龍馬……
 どこで見たものか。
 それは、暗く光の届かぬ洞窟の、ぬめぬめと濡れた岩の壁の上に、浮き出るように存在していた――

 

「テンニ」

 

 突如聞えた甲高い叫び声に、再びはっと息を呑む。
 見上げる眸に上から覆い被さろうとしてくる鬼の巨体が迫る。
 それを刃の切っ先で迎え、貫かれながらもリンケイの黒髪に爪を立てる鬼の腹を力任せに蹴りつける。
 鬼の体は剣から抜けてどさりと倒れ、たちまち他の鬼どもに踏みつけられる。
「スルグーン」
 リンケイは続けて剣を振るいながら、聞えた叫び声に応えて叫んだ。
 ――そうだ、あの龍馬は――
 叫びながら、思い出す。
 あの龍馬は、この声の主スルグーンが、突然何かに憑かれたかのように無心に岩肌に刻み込んでいたものだった。
 それはスルグーンの友であり、そしてそれは恐らく――
「陰陽師」
 だがその想いを断ち切るかのように、スルグーンの鋭く尖った嘴が疾風のごとくに降りて来、リンケイに掴みかかろうとする邪悪な爪を刺して退けた。
「スルグーン」呼ぶ。「聡明鬼はどうした」
「あっちで闘ってるチイ」スルグーンは言うが、あっちとはどの方向なのかまでは示さない。「テンニはここにいるのかキイ」
「いない」リンケイは微かに首を振りつつ剣で鬼を貫く。「だが近くにはいるはずだ」
「この鬼どもが多すぎて見えないチイ」
「恐らく陽世で大量に人間の殺戮が行われたのだろうな」リンケイは肩と背に爪の傷を受け顔をしかめながらもその爪の元をたたき斬った。「そして今も、今後もだ」
「きりがないキイ」スルグーンは唸るように言い、再び上空高みへと飛び上がる。「テンニ。どこにいるチイ」

 

 びょう

 

 音に、リンケイは目を見開いた。
 見ずともそれは見えた。
 斬妖剣――テンニの持つ、刀だ。
 スルグーンを狙って、放たれたものだ。
 見上げたいと思うが、先ずは目の前の、そして背後の鬼どもを捌かねばならない。
「スルグーン」
 陰陽師はただ叫びながら剣を振るい続けるしかできずにいた。
 返事はないが、雷獣の断末魔の叫びも聞えてこない。
 きっとあいつにも察知できたものであろう――

 

「聡明鬼」

 

 スルグーンの叫びは、そう言った。
 リンケイは再び、大きく眼を見開く。
 途端、周囲から迫り来る鬼どもの手の動きがどんよりと重く、まるで刻が止まったかのように見えた。
 何が、あった。
 行かねば。
 リンケイは、鉛のごとく動きを封じられた己の体を衝き動かさんと強く念じた。
 それは法力によるものではなく、ただ単純な、原始的な、生き物の本能の底から来る衝動であった。
 リューシュン!
「うりぁああああああッ」リンケイは吼え、剣を己の周囲に横薙ぎに払った。
 鬼どもが、退く。
 地を、蹴る。
 横薙ぎに剣を払いながら、リンケイは地を蹴り鬼を蹴り、先へ――スルグーンの叫びの聞えた方向へ、走った。

 

 鬼はそこに、いた。

 

 その姿は、思わず顔をそむけたくなるほどに傷だらけとなっていた。
 特に眼を引くのは、衣服をつけぬ上体の肩から背にかけて、ひと裂きに大きく切り裂かれたものだった。
 遠目からそれを見届けた瞬間、リンケイは衝動的に腰の巾着を取ろうとした。
 そこにはいつも、応急の手当てに必要な薬草や器具が入っているのだ。
 だが今、ここ陰鎮鷲椶僕茲襪砲△燭辰討修譴燭舛詫枩い肪屬い討たのだった。
 これからの闘いにおいて、傷を負ったからといっていちいちそれを手当てなどしている暇はないと踏んだのだ。
 それは命尽きるまで闘い抜くという覚悟を、特に言葉にせぬまま決めてきたということだったろう。
 だから今、反射的に腰に手を伸ばしたところで巾着のひとつもそこには下がっていないのだ。
 いつもならば自分の所作につい苦笑を洩らすところだが、今のリンケイはぎり、と歯を食いしばるのみだった。
 ――リューシュン。
 思った時、うなじを鬼の爪に強く掴まれた。
「糞」リンケイは左脇から左手一本に持つ剣で背後の鬼を刺し貫いた。
 鬼は叫喚を挙げ、リンケイの衣を力任せに引きちぎりながら倒れた。
「リューシュンッ」
 陰陽師は叫んだ。

 

          ◇◆◇

 

 その音を、スルグーンもまた聞いた。

 

 びょう

 

 それが何の発する音で、何に向かって放たれた音なのか、瞬時に覚った。
 自分を刺し貫こうとする刃の音だ。
 ――テン――
 その名を胸の裡にすべて呼ぶことができなかった。
 その瞬間、大きな手が、真っ直ぐ自分に向かってきていたその刀を横から掴み取ったからだ。
 ――そ――
 碧の眸が一瞬、自分を見る。
 その衣をつけぬ上体の肩から背にかけて、鬼の爪に切り裂かれたものであろう深く大きな傷が見える。
「聡明鬼」スルグーンは叫んだ。
「来るぞ」聡明鬼は一言だけ答え、すぐに背を向け腰を低めて構えた。
 手には刀を握り締めたままだ。
 掌が切れはしないのだろうか、否深く切れていて当然だ――スルグーンはそれを気にしながらも相変わらず下から伸びてくる鬼どもの爪を避け翼ではたき嘴で退けることを止められずにいた。
 そしてこの剣、細身のこの刀が投げつけられたということは、テンニがすぐ近くにいるということであり、それはつまり、打鬼棒がどこかに在る――
 どこからか飛んで来るはずだということだった。
 スルグーンは全身を眼にしてその得物を見極めようとした。
 ――どこだ。
 聡明鬼も無論同じことをしているのだろう、だがこの鬼には決して触れさせはしない。
 自分が何としてでも打鬼棒の打撃から聡明鬼を護るのだ。
 何故ならばこの鬼は今自分を刃から護ってくれた者だからであり、それよりも前にこの鬼はかつて自分と共に上天にいた神だったからであり、否、それよりも先に――
 友達だからだ。
 龍馬の姿が雷獣の瞼の裏に浮ぶ。
 誰に何を問わずとも、その姿をいつどこで見たものだったかスルグーンには自明であった。
 それは己自身が岩肌に刻みつけ描いた姿だからだ。
 ――あの、龍馬。

 

 いいぞチイ

 もっとやれキイ
   チイ

 

 スルグーンの胸中に、得体の知れぬ、何か苦いものが走る。

 

   チイ

 

 ここで――この隙間で、自分はきっとその名を、龍馬の名を高らかに呼んでいたのだ。
 かつては何の不思議もなく、その名を息をするかのごとく口にしていたはずだ。
 それが何なのか、今は思い出せない。
 まったく、わからない。
「聡明、鬼……」
 この苦い想いとは、一体何なのだろうか。
 楽しい気持ちや悦びなどでは決してない。
 でき得ることならば、一切自分の身の傍に近寄って来ないでいて欲しい、もの。
 これは――
 哀しみだ。
 かつての友――否、今においても同じく友である龍馬、この聡明鬼の名を呼べぬ、その名を思い起こせぬことへの、これは深遠たる哀しみなのだ。
「聡、明」

 

「リューシュンッ」

 

 突如、陰陽師の声が高くその名を叫んだ。
 スルグーンは、猫の眼を大きく見開いた。

 

          ◇◆◇

 

 その音を、リューシュンもまた聞いた。

 

 びょう

 

 何を考える暇もなく、それを掴みに行った。
 狙われているのは友、スルグーンだ。
 それを掴まぬ道理は皆無だった。
 リューシュンは鬼の素手で、飛んできた刀を横から掴み取った。
「聡明鬼」
 鳥神ガルダが叫ぶ。
「来るぞ」龍神ナーガは一言だけ答え、腰を低めて構えた。
 掌は裂けている、だが今はそれに治療を施してもらっている暇などない。
 実際鬼の爪は今もなお留まることを知らず伸びて来て更なる切り裂き傷を負わせようとするし、何より今は――
 打鬼棒が飛んで来ることを第一に考えなければならないのだ。
 そう、テンニがこのすぐ近くにいるはずだった。
 リューシュンは蓬髪を掴もうとする鬼の手を逆に蓬髪の束でくるみ込み、針金のような力でそのままひん曲げて折った。
 手に掴んだ刀は手放さない。
 その刃を指でぐにゃりと曲げ、その柄から伸びる鎖を手早く巻き取っていく。
 その先端に、最も恐るべき得物がくくりつけられているはずだった。
 そしてその先端が聡明鬼の手元に届いた。
 だが予想に反し、そこに打鬼棒はなかったのだ。
「これは――」聡明鬼は一瞬、自分が何かとんでもない間違いをしでかしてしまった事を悟った。

 

「リューシュンッ」

 

 その声が聞えたのは、その時だ。
 はっと息を呑み、振り向く。
「リン」呼び返そうとした。
 その碧の眸に、本来ならばとっくに抑えつけていたはずの打鬼棒が映った。
 テンニの姿がその向こうにあった。
 もはや黒焦げではなく、生きていた頃そのままの姿のテンニだ。
 片目も片手も、失っていたものはすべて元通りになっていた。
 その顔は、眼を細め歯を見せて笑っていた。
 すべては奴の計略通りに運んだということなのだろう。

 

 ごつ

 

 リューシュンは、打鬼棒が自分の額を打つ音を聞いた。

 

◇◆◇◆次号へ◆◇◆◇
 

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葵マガジン 2020年03月21日号

  • 2020.03.27 Friday
  • 10:07

JUGEMテーマ:小説/詩

 

◇◆◇◆聡明鬼◆◇◆◇


第92話 最期(全100話)

 

 風の音を、予測していた。
 天心地胆を抜け陰陽界に入れば、いつものごとく風の音が聞えるのだろうと。
 だが此度、それは聞えなかった。
 否、聞えていたのかも知れないが、スルグーンの耳には届かなかったのだ。
 何故ならば、そこには鬼どもがひしめき合っていたからだ。
 鬼どもが、ぎゃあぎゃあと喚き声を挙げて我先に陽世へ抜けんと押し合いへし合いしていた。
 スルグーンは翼を広げ、鬼どもの頭の上にするりと飛び上がりそのまま陰陽界を飛び進んだ。
 鬼どもが捕まえようと手を伸ばして来る。
 だがスルグーンは鬼の手に捕らえられるほどのろまではなかった。
 嘲笑するかのように、鬼の手からほんの僅か離れた所を飛び過ぎて行く。
 先刻までは陽世で、フラの馬の背の上にてフラが焔を吐きマトウの邸に降り立とうとする鬼どもを焼き払うのを見ていた。
 そしてそれを見ながら、かつてどこかで同じ光景を――似たような光景を見たような気が、していた。

 

 いいぞチイ

 

 そんな風に、自分が叫んでいた光景だった。
 それは眩暈のごとくにスルグーンを衝き揺らし、ついに耐えられなくなってここ陰陽界に飛び込んで来たというのが、正直なところだった。
 しかし今は、そんな光景に惑わされている時ではない。
 雷獣は頸をぶるっと震わせ、ばさりとひとたび強く羽ばたいたかと思うと、鬼どもには眼もくれずに天心地胆を抜け、森羅殿目指し飛び急いだ。

 

          ◇◆◇

 

「聡明鬼」その姿を認めた瞬間、スルグーンは叫んでいた。
「スルグーン」はっとして見回しながら鬼は、スルグーンの姿そのものを認めるよりも前に叫び返して来た。
「ここだチイ」スルグーンは聡明鬼の頭上に浮び、聡明鬼に手を伸ばして来る鬼の目玉を狙って嘴から落下した。
 鋭い悲鳴が響き、目を突かれた鬼はもんどり打って他の鬼どもの足に踏まれ蹴りつけられた。
「リョーマたちは無事か」リューシュンもまた迫り来る鬼の頸をがっきと腕の中に抱えて締め上げながら訊いた。
「大丈夫だキイ」スルグーンは答えたかと思うと翼で鬼の頭をはたき倒した。
 その小さな翼のどこにそんな力があるのかと驚くほどに、鬼どもはスルグーンの一撃の下に次々と倒れ伏していく。
 リューシュンも、負けてはおれぬとばかりに吼え、掴み、投げ飛ばし、かわしては拳を繰り出した。
 鬼どもは互いに入り混じり、敵味方の区別もなく手当たり次第に取っ組み合っては互いに爪や牙で攻撃をしかける。
「テンニはどこにいるチイ」スルグーンが上から叫ぶ。
「わからん」リューシュンは叫び返す。「探してくれるか」
「お前は、大丈夫か」訊く。
「ああ」リューシュンは投げ飛ばしながら答え、そして上を見上げてにやりと笑った。「任せろ」

 

 本当の力を見せろチイ

 

 スルグーンの中に突然、声が響く。
「なんだ……チイ」思わず呟く。
「どうした?」リューシュンがすぐに気づき、鬼の爪を払い返しながら訊く。
「――」スルグーンは羽ばたくこともせず、鬼どもが騒ぐその頭上で浮んでいた。
「スルグーン?」リューシュンは気に留めながらも、襲い掛かってくる鬼どもを払いのけなければならなかった。
「――キイ」
「え?」
 スルグーンの呟きに、聡明鬼ははっとした。
 今、この雷獣が自分の名を呼んだのかと思ったのだ。
「本当の力を」だがスルグーンが言ったのはリューシュンの名ではなかった。「見せろ、チイ」
 雷獣はリューシュンの頭上から、なかば茫然としたようにその言葉を投げて寄越したのだった。
「本当の、力――?」

 

 ああ、任せろ

 

 リューシュンの中にもまたその時、ぐるり、と何かが捩じれるかのような感覚と共に、そんな声が響いたのだ。
 鬼の爪に肩を強く掴まれ、牙を食いしばってその腕をへし折る。
 そしてリューシュンは真っ直ぐに上を見上げ、叫んだ。
「ああ。任せろ、スルグーン」

 

          ◇◆◇

 

 櫓に入り込もうとする鬼どもはすべからく、護符により張り巡らされた結界の力にて弾き飛ばされていく。
 だが次々に鬼どもは降りて来、まさにこの世の果てまでもそれは尽きることなく続くかと思われるのだった。
 従者たちは恐らく邸――ほぼ瓦解してしまった建物の中で、あるいはその下で、命運尽きてしまったか、命からがら逃げ出したかというところだろう。
 だが逃げたところでどこに行けば安寧があるのか、もはやこの陽世に人間の居られる場所などなくなってしまったのかも知れない。
 うまく、やれなかった。
 そんな風に自分を省みるのは、これが初めてのことだった。
 今まで、そんな風に自分を評したことなどついぞなかったのだ。
 自分はいつも、どんな事であろうともどんな場面であろうとも、いつもうまくやって来ていた。
 それだからこそ、リンケイという人間の在り方が、どうにも許容できなかったのだ。
 マトウから見てリンケイは、決してうまくなどやっていなかった。
 それなのに彼自身はそれを気に病むこと微塵もなく、いつも楽しそうに微笑んでいた。
 何がそんなに楽しいのかと訊けば、やれ面白い精霊が居ただの、妙な現象に出くわしただの、人が忌み嫌い恐れおののくような事ばかりを面白き事として口にする。
 それは間違っているのだと指摘すれば、飄としてそうかも知れぬな、と応える。
 マトウは、気に入らなかったのだ。
 自分とはまったく違う性質でありながら、リンケイは――そうリンケイは、なんだかだと言って結局はうまく、やって来ていたのだ。
 恐らく、そうなのだろう。
 自分の助言になど全く耳を貸さず、常に気ままに振舞い、人と寄り合うこともせず、妖怪の類ばかりに興味を持ちながら、リンケイはなんだかだと言って、陰陽の道を見事に究め抜いて来たのだ。
 自分は、人とのつながりを重く見て、それを大切にして来た。
 陰陽の道とて、人の役に立つことと思うからこそ辛き修行にも耐え力をつけて来たのだ。
 リンケイと自分とは、まさに対極の位置にある思想のもと、やって来た。
 そしてずっと、勝っているのは自分の側だとマトウは疑いもしなかった。
 リンケイなどという者は際物に過ぎず、法力こそ強けれども決して清く正しき陰陽師などではない、そう片付けて来た。
 然して、今のこの状況下においては、それこそがまったくの間違いだったのだろうとしか思うことができないのだった。
 リンケイはこの世界を――陽世のみならず陰府までをも救わんがため、生きたまま己に呪いをかけ地獄の閻羅王の元へ旅立った。
 そんなことをすればもう二度と、陽世へ戻って来られぬということも厭わず。
 ――まあ、あいつには今生で別れを惜しむべき相手など居らなんだのであろうがな。
 そんなとこをふと思い、マトウはくく、と喉で笑った。
 自分には、そのような事がまず出来ない。
 自分には、陽世に居なければ、居続けなければならぬ理由が星の数ほどもあるのだ。
 だが、人間たちを救うことが今本当に出来るのは、あれほど人間を嫌っていたリンケイその人こそではないか。
 自分ではないのだ。
 ――つまりは……
 マトウは、眼を閉じた。

 

 ばりばりばり

 

 雷が大気を切り裂くような音が、頭上に聞えた。
 結界が、遂に力尽き果てたのだ。
 眼を開ける。
 巨大な、禍々しき爪を伸ばした鬼の手が映った。
 ――つまりは、そういうことだ。
 鬼の手はマトウの喉首をがっきりと掴み、そのまま上に持ち上げた。
「ぐ」マトウは苦しみに顔を歪め、鬼の手を自らの両手で引き離そうとした、だがどうしてその力に抗しきれよう。「うう、ぐぅ」ただ顔を真っ赤にして足をじたばたと掻くしかないのだった。
 鬼はにやりと笑い、ものも言わずに苦しむマトウのさまを愉しげに見ている。
 その爪がマトウの首の肌に食い込み、血を滴らせる。
 誰も、助けに来はしない。
 誰も、助けに来ようなどとはしない。
 ――つまりは、そういうことなのだ。
 今、救うべき人間たちはマトウの存在になど芥子粒ほどの価値も見出してはいないことだろう。
 何故ならば、この無数に降り立って来る鬼どもを、たちまちの内に葬り去る力が、自分にはないからだ。
 何の役にも立たぬ陰陽師、救ってくれぬ陰陽師を救ってやろうなど誰も思わない。
 ――私は、うまくなどやれはしなかった。
 眦から、一筋の涙が流れて頬を濡らした。

 

「マトウ様!」

 

 叫ぶ声が聞え、マトウはもう一度はっと眼を開けた。
 黒龍馬の姿がそこにあった。
「マトウ様!!」
 その上から叫んでいるのは、リシであった。
「リ……シ」マトウは声もなくその名を呼んだ。
「マトウ様、ただ今参ります!」
 リシはトハキの背の上から叫んだ。
「トハキ、マトウ様を――」
 だが従者の龍馬に急行を命じようとしたその眼に、信じられぬものが映ったのだ。
 マトウが――鬼に首を締め上げられ瀕死のさまに成り果てている主が、遠くから駆けつけようとするリシに向かって震える手を差し上げ、制したのだ。
「マトウ、様」リシは困惑の想いでただその手を見つめるばかりだった。
 そしてマトウは、唇を少し開け、微笑んだ。
 リシはそれを見て、更なる衝撃に胸を撃たれた。
 笑って、いる。
 主は今――生命の危機にさらされているこの今の瞬間に、笑っている。
 一体、何故――まさか。
 ――陰鎮鷲椶悄宗
 その刹那胸に浮んだ自らの想いまでをも、リシは信じ難い想いで見た。
 陰鎮鷲椶悄宗醜圓海Δ函△いΔ里。

 

 ごきり

 

 そのような音が、鳴った。
 リシには、そのような音が耳に聞えた。
 マトウの手が、だらりと下に垂れ下がる。
 鬼の巨大な手の中で、マトウは最期の姿をそこに晒していた。
「――」
 リシはただそれを見つめるのみで、言葉も無かった。
 空中に浮ぶトハキの背の上で、リシは為す術もなく無言のままマトウの最期の姿をただ見ていた。

 

◇◆◇◆次号へ◆◇◆◇
 

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葵マガジン 2020年03月14日号

  • 2020.03.17 Tuesday
  • 09:58

JUGEMテーマ:小説/詩

 

◇◆◇◆聡明鬼◆◇◆◇
第91話 欺瞞(全100話)

 焔を吐く。
 左右に、そして上下に頸を振り、魔焔を渦のごとくに撒き散らす。
 鬼どもの壮絶な悲鳴が焔の向こう側から轟いてくる。
 消し炭と化したその者どもは瞬時に粉となり、焔の熱が生んだ風に散らされていずこへともなく散ってゆく。
 背の上に落ちてくるものは揺さぶって振り落とし、尾に掴まろうとするものはそのまま締め上げて龍の頸の硬い鱗にぶつけ落とす。
 龍馬たちはそれぞれに、空の天心地胆から降って来る無数の鬼どもを討ち払いつづけた。
 だがケイキョの怖れていた通り、鬼どもは何百、何千、もしかすると何億という数に上るかと思わせるほどに無数にいた。
 このまま永久に、この鬼どもを討ち払い続けねばならないのではないか、そんなことまでを想わせる数だった。
 ――きりがないな。
 リョーマは、そう思いながら焔を吐く。
 ふと横を見ると、離れたところでフラ、そして黒龍馬のトハキが同様に焔や尻尾で鬼どもを黒焦げにし蹴散らしているのが見えるが、この二頭も恐らく、きりがないと思っていることだろう。
 やはり、陰鎮鷲椶砲い襯謄鵐砲鰄佑靴討靴泙錣佑弌⊇わらないのだろう――
 リョーマの中に、懐かしい微笑みが浮ぶ。
 ――リンケイ様――
 自分が、陰鎮鷲椶惺圓韻燭覆蕁
 突如として沸き起こる嵐のように、そんな想いが胸に迫る。
 思わず眼を強く閉じる。
 たちまちリョーマの体に鬼どもがへばりつき、爪を立て牙を剥く。
 リョーマはぶるっと大きく身震いし、尾を強くはたいてそれらを叩き落とし、それから眼を開けた。
 ――こいつら鬼どもでさえ、陰陽界を通って来られるのに……なんでおれは、それができないんだろう。
 そう思ってから、リョーマは少しだけ、可笑しくなった。
 リンケイも、今のリョーマと同じことをよく言っていたからだ。
 ――でもリンケイ様は今はもう、陰陽道を通って陰鎮鷲椶帽圓韻襪鵑……陽世には戻れないけど……
 焔を吐く。
 ――龍馬も、呪いをかけてもらえば陰鎮鷲椶帽圓韻襪里な。
 顔の上にへばりついてきた鬼を髭で巻き取り、がぶりと喰らいつく。
 ――聡明鬼は、なんで陰鎮鷲椶帽圓韻襪鵑世蹐……鬼だからだろうけど、でも元は龍馬だったのに、なんで……
 馬の体を強く震わせ、しがみついていた鬼どもを容赦なく振り落とす。
 ――おれも、鬼になれたら行けるのかなあ。

 

「リョーマさん」

 

 鼬の呼び声に、はっと身を正す。
「ケイキョさま」リョーマは呼び返したが、鼬は念を送ってきたようで、周囲にその姿は見当たらなかった。
「リョーマさん、おいらとスルグーンさんは今から、陰鎮鷲椶帽圓辰突茲笋后恣譴惑阿任修里茲Δ帽陲欧拭
「陰鎮鷲椶悄」リョーマは驚いて、鬼どもを焼くことも振り落とすことも忘れ龍の眼を大きく見開いた。「駄目だ!」叫ぶ。
「けど、陰鎮鷲椶妊謄鵐砲鰄佑気覆じ造蝓△海竜瓦匹發鰐妓造砲笋辰突茲笋垢茵スルグーンさんと、おいらも芥子粒ほどの力を何かの役に立ててもらってきやす」
「駄目だ!」再び叫ぶ。「スルグーンは何とかするだろうけど、ケイキョはここに居ろ。おれのいる、陽世に」
「リョーマさん」ケイキョは少し声を詰まらせた。「また、戻って来やすよ」
「おれはお前の従者だ」リョーマの中からはもはや、ケイキョに対して敬語を使うという意識がすっかり消し飛んでいた。「陰鎮鷲椶帽圓辰舛泙辰燭蕁護れなくなっちまうだろ」
「リョーマさん」ケイキョはますます声を詰まらせた。「おいらは、大丈夫でやすよ」
「大丈夫なもんか」リョーマは言いながら、マトウの邸を目指し滑り降りはじめた。「行くな」
「おいらは精霊だ、テンニの打鬼棒を恐れずに対峙できやす」
「あの刀で一度やられたじゃないか」
「それは……そうでやすが、けど今はそんなこと言ってる時じゃ」
「駄目だ、行くな」リョーマの眼には、自分の周囲に群がる鬼どもすら映っていなかった。「陰鎮鷲椶帽圓のは、リンケイ様だけでいい」
「――」鼬は、言葉を失くしたようだった。
「行かないで」リョーマはただそれだけを繰り返す。「行ったら駄目だ」
「ケイキョ」
 スルグーンの念が割り込んでくる。
「お前は残ってろチイ。おれだけが行って来るキイ」
「スルグーンさん」
「でも、フラは」リョーマがすぐにそれを訊く。「フラを独りにするのか」
「独りじゃないチイ」スルグーンははっきりと答えた。「リョーマ、お前がいるキイ」
「――」今度はリョーマが言葉を失う。
「それに俺は、絶対に生きて戻って来るチイ」スルグーンは叫ぶように言う。「あいつが、聡明鬼がいるからキイ。よろしく頼むチイ」
 スルグーンの念は、その直後にふっつりと消えた。
 天心地胆を抜け出たのだ。

 

          ◇◆◇

 

 天から降って来る鬼、無数に増え続ける鬼どもに対し、邸に集った降妖師たちの突き出す護符、吹き付ける朱砂がそれを撥ねつけていた。
 だが攻めと護りにおける数の差は如何ともし難く、隙間をすり抜けて人間たちの居る所へ鬼どもが侵入して来るまでにそれほど時間はかからなかった。
 リシら陰陽師たちも法術を駆使し、黒真珠や銀剣に法力を注ぎ対峙したが、果てしなく続く闘い、祓っても祓っても湧き出てくる鬼どもに、力においても気においても消耗が激しかった。
 何体めの鬼をねじ伏せた後だっただろう。
 突如轟音が響き、邸全体が大きく揺らいだ。
 リシははっと身を強張らせ、だがすぐにマトウの姿を捜して走り出した。
「マトウ様」叫ぶ。
 天井からぱらぱらと瓦礫が落ち、壁には亀裂が次々と走り行く。
 腕で頭部をかばいつつ、リシは灯火の消えた暗い廊下を走った。
 混乱し逃げ惑う人間たちとすれ違いぶつかり合い、押し退け、取りすがって来る手を振りほどく。
「鬼どもが」
「鬼どもが邸を壊した」
「どうすればいいんだ」
「助けて」
「どこへ行けばいい」
 人間たちはもはや、自分が助かることしか考えていない。
 リシはたちまち幾人もの手に捕まり、身動きも取り難くなったのだ。
「マトウ様」叫ぶ。「お前たち、マトウ様の元へ私を通せ」
「マトウ様はいない」
「一人で逃げたんだ」
「我々を見捨てて自分だけ逃げた」
「あんな卑怯な女のことなど知らぬ」
「何だと」リシは自分に群がる人間たちを睨みつけ、腕を強く振った。
「玉帝の御加護はどうなったんだ」
「我々をお護り下さるはずじゃなかったのか」
「嘘つきだ」
「卑怯者だ」
「――」リシは怒髪天を衝き、自分に取りすがる腕に噛み付いた。
 次いで腰から払塵を抜き取り、残りの者どもをぴしりぴしりと次々に打っていった。
「うわあっ」
「痛い」
「何をする!」
 人間たちは顔をしかめ体を曲げ、リシから離れた。
 リシはそのまま走り出し、マトウの居たはずの室の扉を引き開けようとした。
 だが邸はぐらぐらと何度も揺れ、扉も歪んでしまったようで、それは引っかかりびくともしなかった。
「マトウ様!」リシは叫んで扉を強く叩いた。「私です、リシです。ご無事ですか」
 返答はない。
「マトウさ――」

 

 ごごごご

 

 不気味な地響きが鳴り、視界が小刻みに震え、次には立っていられぬほどの揺れが襲った。
 リシはどこに掴まる事も出来ず、床上に座り込み腕で頭をかばい見上げた。

 

 ごうん

 

 ひと際大きな破壊の音が轟いたかと思うと、ついに邸は傾いてしまった。
「うわああああ」リシは廊下を、座り込んだまま滑り落ちていった。
 平らな床の上には手をかけ体を支えるものとてない。
 ――ここまでか。
 強く眼を閉じ、自分が無残に潰れ命尽きることを覚悟した。
 ――聡明鬼――
 黒い蓬髪と、碧の眸、笑っている顔を想い、歯を食いしばる。

 

 がしゃん

 

 その時破壊の甲高い音が耳を劈き、次の瞬間には柔らかくしなやかで長い尾がリシの体に巻きつき、ぐいと引っ張り上げたのだ。
 その感触を、リシは知っていた。
 眼を開ける。
 今リシは高く持ち上げられ、大きく傾いた邸を遥か下に見下ろしていた。
 そしてふわりと、よく知った感触の馬の背の上に乗せられた。
「トハキ」従者の名を呼ぶ。
「お怪我はありませんか」黒龍馬が素早く尻尾でリシの体全体を撫でる。
「ああ、大丈夫だ」リシは大きく安堵の息をついた。「ありがとう」
 トハキは主の危機に駆けつけ、倒壊しかけている邸の窓と壁を焔で焼き壊し、リシを尾にて巻き取り引っ張り出したのだ。
「ありがとう」リシは馬の背の上に倒れこみ、もう一度礼を言った。
 だがすぐに身を起こす。
「マトウ様を捜してくれ、トハキ」叫ぶ。「鬼どもに掴まってはいないか」
「かしこまりました」トハキは再び邸に向け降下して行った。

 

          ◇◆◇

 

 天から降ってくる鬼どもの数は、心成しか若干減ってきたようにも見えた。
 だが本当にそれは心成し、気のせいかも知れない。
 マトウは上目遣いに空を見、奥歯を噛み締めた。
 鬼どもと、話し合いで事を解決するなど、端から簡単に出来ることではないと解っていた。
 或いは、それを口にしながら自分の中では、端から無理な事だと諦めていたのかも知れない。
 ふ、と少しだけ笑う。
 こんな欺瞞の輩につき従ってくるなど、人間というものは実に愚かで浅はかな奴等だ。
 こんな欺瞞の輩の言葉を、宝のごとく有難がりその通りに生きようとする――その挙句がこの有様だ。
 今マトウは護符により堅固に護り固められた高い櫓の上に佇んでいた。
 従者らは邸の警護に戻らせ、ただ独り、櫓の上にて振り落ちてくる鬼どもを眺め渡していた。
 邸にも護符の護りは張り巡らせてあるので、当初鬼どもは弾かれ、撥ね飛ばされて地面に転げ落ち、邸の中へはおろかその壁や天井に触れることもかなわずにいた。
 だが鬼の数は黒き星屑かと思わせるほどにも増え、ついに護符の護りに隙間が生まれ、そうした途端邸には鬼どもがわらわらと入り込んでしまったのだ。
 阿鼻叫喚の叫び声が次々に、邸のあちこちで響き渡った。
 人々は爪に裂かれ牙に毟られして、たちまち邸内は地獄の様と成り果てたのだ。
 そして邸はついに、無数の鬼どもの手により叩き壊され、剥がされ、押し倒されようとしはじめた。
「リンケイ」
 マトウは、その名を呼んだ。
「お前は今、陰鎮鷲椶撚燭鬚靴討い襪里澄うまくやっているのか」
 空に向け、問う。
「うまくやるとはつまり、閻羅王につき従い、此度の戦をけしかけた悪鬼と闘い捻じ伏せておるのかという事だ」
 眼を閉じる。
「私は、できなかった――うまく、やれなかった」

 

◇◆◇◆次号へ◆◇◆◇

 

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評価:
(2019-05-22)
コメント:我々はリーグ戦のコマとして使う「強き者」を求め、とある渦巻銀河の辺境へとやって来たのだが──表題作ほか9編収録のショート作品集。

葵マガジン 2020年03月07日号

  • 2020.03.10 Tuesday
  • 21:21

JUGEMテーマ:小説/詩

 

◇◆◇◆聡明鬼◆◇◆◇


第90話 地獄絵図(全100話)

 

 リューシュンは、鬼どもを次から次へと掴んでは天心地胆の向こうへ放り込んだ。
 だが鬼の数は知れず、こちらも次から次へと踊り出て来る。
 さらに他の天心地胆からも、わらわらと出て来ては陰陽界を駆け巡り駆け去ってゆくのだ。
 ――くそ、独りでは埒が開かん。
 リューシュンは歯噛みしたが、どうすることも叶わなかった。
 せめてここに、コントクやジライ、ケイキョやスルグーン、そしてリンケイが居てくれたならば。
 そんなことを思う間にも、鬼どもはリューシュンの手をかいくぐり、またその手に噛み付き、振り解き、逃げ去ろうともがく。
 リューシュンは痛みと怒りに任せて、拳を握りがつんごつんと鬼どもを殴りつけた。
 気絶する鬼や泣き叫ぶ鬼、その場にしゃがみ込んでしまう情けない鬼たちもいたが、多くはリューシュンに止める術もなく、陽世へと潜り抜け出てしまうのだった。
 ――やはり陰鎮鷲椶帽圓辰董▲謄鵐砲鰄佑靴討靴泙錣佑个匹Δ砲發覆蕕覆い。
 そう判断し、リューシュンは矢庭に鬼どもから手を離し、天心地胆に最初の目的通り身を潜り込ませた。

 

          ◇◆◇

 

「さあ、これでいつ鬼どもが攻め込んで来ても恐れることはない」
 人々はそんな事を言い、互いに頷き合って心を強め合った。
 マトウの言葉通り皆は集い、邸の周りを鋼や巌にて強固にかため守り、門を造り、簡単にはよじ登れぬほどの立派な櫓を組み上げた。
「地上の天心地胆から来る鬼どもに対しては、あれでいいんでやしょうが」ケイキョが、そわそわと心配そうに歩き回りながら言う。「奴ら、空から降って来たりはしねえでやしょうかねえ」
「その時は、おれたちの出番さ」リョーマが、仔犬の鼻をくんくんと鳴らしながら安心させる。
「そうだな」黒犬のフラも、頷く。「俺たちが、空の天心地胆から来る鬼どもを焼き尽くしてはたき落とす」
「そうで、やすね」ケイキョは尚も不安を拭えぬ様子で、遥か上空に存在する天心地胆――地上からはなかなか眼に留めることができぬそれを、見上げた。
 龍馬二頭で――トハキが力を貸してくれたとしても三頭で、こと足りるのだろうか。
 恐らく決して足りはしないのだろう。
 陽世に棲むすべての龍馬たちを集めることができるのであれば心強いであろうが、鬼どもが襲い来る場所はなにもこのマトウの邸のみと限ったことではない。
 陽世中で、この世のいたるところ、あらゆるところで、鬼どもと人間たちとの闘いが始まろうとしているのだ――
 ケイキョは今更ながら、ぶるっと鼬の身を震わせるのだった。

 

          ◇◆◇

 

 リューシュンは、走った。
 森羅殿を目指して、ひたすらに走った。
 走ろうとした。
 だが道を真っ直ぐに開けてはもらえなかった。
 陰鎮鷲椶任蓮陰陽界の比ではない数の鬼どもが叫びながら狂ったように走り回り、逃げ回っていたのだ。
 阿鼻叫喚というものを間近で眼にする事態だった。
「リンケイ」叫ぶ。
 だがその声がおよそ届くだろうとは思っていなかった。
 それでも呼んだ。
「リンケイ。コントク。ジライ」
 鬼どもがわあわあ、ぎゃあぎゃあと喚き散らし、リューシュンの呼びかけを消す。

 

「閻羅王」

 

 ついにリューシュンはその名を叫んだ。
 鬼どもが、声を失い眼を見開いて、声の主を振り向く。
「閻羅王、聞こえるか」リューシュンは続けて叫んだ。「俺だ。聡明鬼だ。テンニと闘いに来た」
 鬼どもが、近くにいるのであろう閻羅王をきょろきょろと探す。
 だがその姿は見えない。
 そもそもリューシュンは、閻羅王に呼びかけているつもりなどなかった。
「閻羅王」の名を借りて、鬼どもに対し言葉を浴びせかけていたのだ。
「だがこうも大勢の鬼どもが騒ぎたて走り回っていちゃ、闘いの邪魔になって仕方がない。こいつらは鬼のくせに、ここ陰鎮鷲椶箸△鵑随緲絏Δ鮓捨てて、陽世に逃げ込もうとしているんだな。そんな不義理の奴ら、この俺がテンニを討ち取った暁に、あんたは再びここ陰鎮鷲椶坊泙入れるつもりでいるのか」
 それまで単純に、自分が逃げおおせることのみを思っていた鬼たちが、そこで初めて「その後」のことに思いを馳せた。
 確かに今自分だけが逃げて、テンニと打鬼棒がいなくなったその後、また何事もなかったかのように戻って来られるだろうか。
 閻羅王が、それを許すだろうか。
 鬼どもはそれぞれ、強く首を振った。
 その時こそ、自分たちは最期を迎えるのだろう。
 十八層地獄に叩き落されて。
「た、倒そう」鬼の一足が、言った。
 全員の鬼が、振り向く。
「そ、そうだ」別の鬼が、答える。
「そうだ」
「あのテンニとかいう奴を」
「俺たちも、やっつけよう」
「俺に任せろ」リューシュンはすかさず言葉を継ぐ。「お前たちは俺の後ろからついて来ればいい。力を貸してくれ。打鬼棒のことは任せろ」
 言いながら思うのは、斬妖剣をぎらりと光らせて構えるリンケイの姿だ。
 リューシュンとて、打鬼棒で打たれてはその後がない。
 無闇に近づくことはできないのだ。
 だが、人間であるリンケイならば、それが叶う。

 

「騙されるな」

 

 だがその時、遥か彼方から別の鬼どものがなり立てる声が届いた。
「そいつは聡明鬼、閻羅王様に楯突いていた者だぞ。閻羅王さまの友達のような面をしてその名を呼んではいるが、信用してなるものか」
「そうだそうだ」
「閻羅王様に楯突く鬼ではなく、我等こそが閻羅王様とここ陰鎮鷲椶鮗蕕衄瓦のだ」
「そこにいるような嘘つきの鬼こそ、倒してしまえ」
「何」リューシュンは牙を噛み締めた。
 まさか今ここで、自分への反駁を露にしてくる鬼どもがいるとは、さすがの聡明鬼にも予測がつかなかったのだ。
 だが今そのような理由で、鬼同士が争っている時ではない。
「待て」リューシュンは、自分を睨みつけ迫り来ようとする鬼どもに慌てて手を挙げた。「俺が信用できないならそれはそれでいい、だが今は俺でなく、テンニを斃してくれ。俺とのことはその後にしてくれ」
「逃げるのか」
「卑怯な奴だ」
 差し止められた鬼どもが文句を言い立てる。
「何だと」ついリューシュンもむかっ腹を立てる。「卑怯とは何だ」
「卑怯は卑怯だ」
「貴様打鬼棒が怖いから、今更のように閻羅王様に与しようと企んでおるのだろう」
「女々しい奴よ」
「女鬼の腐ったような鬼だ」
 鬼どもは次から次へと言いたい放題を言い募る。
「貴様らッ」リューシュンは牙をぎりぎりと鳴らし、次にはだっと駆け出して鬼どもに掴みかからんとした。

 

「閻羅王なにする者ぞ」

 

 その時、更に別の方向から別の鬼のがなり立てる声が轟いてきた。
 リューシュンをはじめすべての鬼は、またはっとしてそちらの方を見た。
「これからの陰鎮鷲棔△い笋輝界に限らず陽世も、統べるのはテンニ様その方に他ならぬ」
「テンニ様、だと?」リューシュンは耳を疑った。
「そうだ、テンニ様だ」新たに現れた鬼どもは揃って頷いた。「あのお方こそがこの先、閻羅王に代って世を統べる方なのだ」
「お前ら――」リューシュンと、そこにそれまでいた鬼どもすべては、言葉を見失った。
「逆らう者は誰だ」
「テンニ様に楯突く者、今ここで儂らが喰い殺してくれる」
「名乗るがよいわ」
「どいつだ」
「ふざけるな」リューシュンは更なる怒りを声に籠めた。「テンニにつくとは、お前ら正気か。どういうつもりだ」
「ふざけてなどいるものか」鬼どもはしかしひるまない。「儂らの仲間は今次々と、陽世に出て行って人間どもを支配に治めておるところだ」
「な」リューシュンは愕然とした。「テンニの、従者が」
「そうともさ」
「ふははは」
「今頃陽世のばかな人間どもが、鬼と話し合って事を収めようなどとばかな考えを起こして逆に頭から喰い千切られておるところよ」
「はははは」
「ぎゃははは」
 鬼どもは牙を剥いて狂ったように笑い合う。
「黙れ」リューシュンは怒鳴りつけた。「見て来たようなことをほざくな。貴様らこそどうしようもないばか鬼どもだ」
「見て来たことだ」鬼どもは鼻を鳴らした。「テンニ様がな」
「何だと」リューシュンは腹の中にどす黒い影がたちまち広がるのを留められなかった。「テンニが――そう、言ったのか」
「当たり前だ」
「だからテンニ様はこの世もあの世も手にできるのだ」
「なにもかもお見通しなんだからな」
「ばか鬼はお前の方だ」
「ききき」
「はははは」
「貴様らはただ打鬼棒が恐いだけじゃないか」リューシュンは理性を打ち捨てたかのように牙を剥き凶暴じみた様相になり怒鳴った。「何がテンニ様だ、もはや貴様らには憐憫の情すら持てぬわ」走り、一番近くにいる鬼の顔面に正面から爪を突き立て、引き裂く。
「貴様聡明鬼、よくも」
「やってしまえ」
「ぶち殺せ」
「打鬼棒の男につく奴らこそ殺してしまえ」
「やってやれ」
 いま陰鎮鷲椶蓮血となって流れこそしないが鬼どもが互いに切り裂き合い噛み千切り合い、まさに地獄絵図と化したのだ。

 

          ◇◆◇

 

 森羅殿には最初、助けを求める鬼どもが集まり来、次に破壊せんと目論む鬼どもが群がり来た。
 リンケイ、コントク、ジライの三足は、助けを求める鬼どもは森羅殿内の鬼差や小鬼たちに任せ、破壊しに来る鬼ども――その違いは遠目にあってもその様相、表情で一目瞭然だった――には容赦なく刃を突き立てた。
牛頭と馬頭はいつものように閻羅王の傍で、最後の砦の守りに就いていたようだったが、敵として襲い来る鬼の数が尋常でないことを知るやただちにリンケイ達に交ざり闘い始めた。
 走り来る鬼どもを斬り、突き、押し倒し、蹴り上げ踏みつけ、完膚なきまでに叩きのめす。
 しまいには鬼差や鬼卒、小鬼までもが武器を取り闘いに加わった。
 力に劣る者は哀れにも敵鬼の牙や爪の犠牲になるばかりであったが、それでも恐れるものはいなかったのだ。
 ここ森羅殿もまた、壮絶なる地獄絵図の様を呈していた。

 

          ◇◆◇

 

 星屑にも見まがうほどの数だった。
 だがそれは星ではなかった。
 すべからく、鬼だったのだ。
 それらが堕ちてくるその数は、とても人間たちの予想できるものではなかった。
 それも道理で、生きている人間たちには地獄の鬼が一体何匹いるのか、わからないのだ。
 かつて鬼だったものが投胎して人間になったという人間もいるだろう。
 しかし人間として生まれ出、人間として育って行けば、もはや鬼であった頃の事などまったく思い出すことはないのだ。
 今、空からわらわらと降って来る鬼どもは、かつて鬼であった者にとっては初見の鬼にすぎなかった。
「来るか」
 マトウが空を見て一言、言った。
「はい、鬼どもが来ます」リシは慄然と叫んだ。
「いや」マトウは首を振った。「来るというのは、地獄絵図の世界がだ」

 

◇◆◇◆次号へ◆◇◆◇
 

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評価:
(2019-04-30)
コメント:会議室では、火星の開発方法、各国の分担などについて活発な論議が交わされていた。だが一人の男、日本人科学者だけは、口を閉ざしていた。見かねた仲間が声をかけると、彼はやっと重い口を開き――とんでもないことを語り始めたのだった。表題作ほか「うで」「お父さん昇天記」収録。ショートSFコメディ集。
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葵マガジン 2020年02月29日号

  • 2020.03.10 Tuesday
  • 21:08

JUGEMテーマ:小説/詩

 

◇◆◇◆聡明鬼◆◇◆◇


第89話 陰と陽(全100話)

 

「兄さん、三叉には慣れたか」ジライが牙を見せて笑いながら問う。
「言うな」コントクは鬼の眉を情けなく下げ、笑うしかなかった。
 鬼の中においては穏やかな性質の方であるコントクに、三叉という地獄の武器は幾分重く、なかなか手強い相手だった。
 自在に、かつ効率よく振り回せるように、牛頭馬頭について訓練をするが、気持ちがいささか焦ってもおり、床にぶつけたり手から弾き飛ばしてしまったりと、失敗が続くのだった。
 だが、弱音を吐いてなどいられない。
 なにしろ、いつテンニが再びあの打鬼棒を持ち陰鎮鷲椶妨修譴襪里もわからない。
 その時には閻羅王より授かりし三叉をもって、ここ陰鎮鷲椶忙澆泙蕕鎖祐屬燭舛寮海猴枩い癲△修靴洞鳴襪反誓腓寮海狆綸靴鬚癲護らねばならないのだ。
 そう、コントクは人間としての弟ジライを失ったあの日――コントクを追い聡明鬼と二足、陰陽界を走り、また走り、そしてついに天心地胆を飛び出した後あの光景を見た時に、感じたのだ。
 そこは上天にいちばん近い所にある天心地胆なのだということは、後で知った。
 だがそれを知るよりも先にコントクはテンニが、地獄だけではなく上天までも、支配下に置くことを目論んでいるのではないか、と――
「さあ、今日もやるぞ、兄さん」ジライが三叉を振り回しながら告げ、コントクの想いを断ち切った。
「ああ」兄鬼は頷き、腰の位置に三叉を構え、二足の得物は互いの刃先を探り合い、隙を突いてはそれを弾き返し、打ち合う音を響かせた。
 しばらく稽古を続け、息も大分上がって来、いつものようにコントクの方が休憩を申し出た。
 鬼の兄弟は床に座り、小鬼の運んで来た飲み物を喉に流し込んで息を整えた。
「今日は、牛頭と馬頭の来るのが遅いな」ジライがふう、と息をついて言う。
「ああ、そうだな」コントクも同じことを思っていた。
「何事か、変化の兆しでもあったのだろうか」ジライがまた言う。
「――」コントクは何とも返答できずにいた。
 そんな事はないだろう、とは決して言えぬ状況だ。
 しかし、きっとそうだろうと逸るわけにもいかない。
「どうする、兄さん」ジライが訊く。
「待とう」コントクは弟に頷きかけた。「テンニが最終的にやって来るは、この森羅殿のはずだ。ここを離れてはいけない」
「ああ」弟も頷く。「警戒して、見張りを続けよう」
「居ましたか」陰陽師の声が遠くから二人を呼ぶ。
「おお」
「陰陽師殿」鬼の兄弟は揃って振り向く。
「ご鍛錬のところ、邪魔をします」リンケイは二人に近づきながら告げる。「どうやらあのテンニ、戻って来そうな気配ですな」
「おお」
「なんと」鬼の兄弟は手に持つ三叉をひと際強く握り締めた。「ではいよいよ」
「ええ」リンケイは鋭く眸を光らせ頷く。「時が参りました」
「聡明鬼たちは、まだ」コントクが訊ねる。
「あいつはまだ、来ていません」リンケイが答える。「先にここに辿り着くのは、テンニの方と見てよいかと」
「あの禍々しき悪鬼を」ジライが唸るように言う。「必ずや、十八層地獄へ」
「もしくは」コントクも眉根を寄せる。「彼奴をこそ血と変えてやらん」
 三足は、同時に頷いた。

 

          ◇◆◇

 

「我々は、どうするべきなのでしょうか」群集のうちの一人がマトウに向かって訊いた。「何をするべきなのでしょうか」
「我々はどうあるべきなのでしょうか」他の一人が続く。
「お教え下さい」
「マトウ様」
「主様」
「私たちはこれから何処へ行って何をすればいいのですか」
 マトウはしばらくの間、目を閉じて人々の声に耳を傾けていた。
「マトウ様」
「主様」
「マトウ様」
 人々は、あたかも水を求めるかのように答えを乞うた。
「わからないのであれば」やがてマトウは、静かなる声で言った。「ここに居て、邸の事をしていなさい。庭の手入れや室の掃除、料理ができる者は厨に行き、裁縫ができる者は針室へ、天井や壁の補修などにも人手が必要だ」
「――」人々は口をあんぐりと開けて言葉を失った。
「そんな」一人が、望みを失ったかのように呟く。「そんな事をしている場合では」
「そうです」別の一人が追従する。「鬼が、攻めて来るのですよ」
「邸の事だの、料理だの、そんな呑気な事をしている場合じゃないでしょう」
「我々にはもっと他にやるべき事があるのではないですか」
「ではそれをするが良い」マトウはまた静かに言い、にこりと微笑んだ。「もっと何か、大事な事があるのであれば」
「だから」
「だからそれを、我々に教えて下さいと言っているのです」
「マトウ様がお決め下さい」
「我々にご指示を」
「何をすべきなのか、ご命令を」
「何をすべきか」マトウは笑みを消した。「それは、お前たちそれぞれの中にこそ在る」
「――」人々はまた言葉を失った。
「私の言葉の中に在るものではない」
「そんな」
「我々には、わからない」
「あなた様は何をお考えなのですか」
「あなた様は、我々がお嫌いなのか」
 人々は、戸惑いを口々に言い立てた。
「なんだか、不穏な様子になってるみたいだチイ」
 空の上から見下ろしながら、スルグーンが言った。
「そうでやす……ね」ケイキョも心配そうに、リョーマの背の上から下を覗き込む。「何の話でやしょう」
「私がお前たちを、嫌い?」マトウはひょいと眉を上げ、驚いたような顔をして訊き返した。「まさか」
「しかし」
「けれど」
「ではなぜ」
「何故私たちをお見捨てになるのか」
「見捨てる?」マトウはまた訊き返した。「見捨てる気ならば、ここに居て邸のことをしろなどとは言わぬ」
「しかし」
「けれど」
「ではなぜ」
 人々の問いは続く。
「まずここに居れば、私と共に居れば、玉帝の加護の下にあることができる」マトウは指を立てた。
 人々は、しんと静かになった。
「そしてここに皆が集まれば、個々人でよりも尚いっそう強い気持ちと意志をもって鬼と対峙できる」
 人々は、あ、という形に口を開いた。
「だが皆が集まるのであれば、その人数に合わせて邸の様相や造りに手を加える必要が出て来る。寝泊りする室の用意、食事の用意は無論のこと、邸そのものの防護も強固にせねばならぬ。それは、集まる皆の手すべてを合わせ、心を合わせて行わなければならぬ」
 人々は、言葉もなきまま息を大きく吸い込んだ。
「しかして皆は真に一体となり、まさに鬼をも恐れぬ個々の力を凌駕した大いなる力と成れるのだ」
「おお」
「まさしく」
「仰る通りだ」
「マトウ様」
「マトウ様!」
 群集は今や腹の底から歓喜して主たる陰陽師の名を叫び、気持ちを一にし両手を振り上げた。
「さすがでやすね」ケイキョがぼそりと呟く。「見事にまとめた」
「うんキイ」スルグーンも同意した。「あの女、聡明鬼に頼まれたことをちゃんと守ってるチイ」

 

          ◇◆◇

 

「お疲れ様でございました」リシが労い、マトウの手の器に酒を注いだ。
「我々が嫌いなのか、と問われたのは、初めてのことだ」マトウは面白そうににやりと笑い、酒を口に含んだ。「この私がそう言われるとはな」
「まことに」リシは愁眉を寄せ嘆息した。「やはり皆、この状況に少し精神を狂わせているものかと」
「人間は好きだ」マトウは室の天井を見上げた。「だが人間から特別の感情を向けられるのは嫌いだ」
「え――」リシは驚いて主の横顔を見た。
「と、昔私に向かって言った者がいた」マトウはリシに眼を向け、くくく、と喉を鳴らして笑った。
 ――リンケイ様だ。
 それを聞いた時、仔犬の姿で室の片隅に寝そべっていたリョーマはすぐに察した。
 人間を観察するのは好きだが、こちらに向かって特別な感情を振りかざして来られるのは好きじゃない。
 前の主は、その通りの人だった。
 リョーマは、そんな人に仕えて、ずっと傍に居たのだ。
「誰、ですか」リシは戸惑いながら訊ねた。「そんな事をマトウ様に言うなど」
「ふん」マトウは不敵の笑みを浮べ、もう一度酒を口に運んだ。「今は、地獄にいるらしいぞ。この私を出し抜いて」
「えっ」リシは驚いた。「鬼、でございますか」
「違う。人間だ」マトウは首を振る。「人間として、生きたまま地獄へ行った」
 ――やっぱり。
 リョーマはまたしても思った。
 やっぱり、リンケイのことだ。
「だが私はやって見せる」マトウは眼を閉じた。「どんな感情を向けられようとも、私は奴のごとく逃げたりなどせぬ」
「逃げたんじゃない」
「逃げたわけじゃありやせん」
「逃げてないチイ」
 仔犬と鼬と雷獣が、同時に反論した。
 マトウとリシには龍馬の声も聞こえるので、吃驚して振り向く。
「なるほどな」だがマトウはすぐに、また笑った。「だがあいつは確かに逃げたよ、この私からな」
「どうして、あんたから逃げなきゃいけないんだよ」リョーマはむきになって言い募った。
「感情を、散々向けてやったからだ」マトウはむっつりと答えた。「あいつの嫌いな、感情というものをな」
「――」リョーマは少しの間、考えた。
 リョーマにも、この女は見覚えのある存在だったのだ。
 かつて、主と共に陰陽道の修行をしていたと憶えている。
 そして確かにこの女は、やたらリンケイに対し口うるさく小言を言っていたのだ。
 マトウの方は、どうやらリョーマのことを憶えてはいないようだった。
 龍馬を見慣れ過ぎているせいか、人間ほどには龍馬になど興味がないせいかは知らないが、リョーマは面白くもなさげにぷいとそっぽを向いた。
「なんだお前チイ」スルグーンがずけずけと言い立てた。「あの陰陽師と友達だったのかキイ?」
「違う」今度はマトウが反論した。「友達などではない」
「じゃあなんだチイ」
「――共に」マトウは言い、それから手の器を見下ろして中の酒を飲み干した。「ずっと共に、陰陽道を極めたいと思っていた」
「共に?」仔犬と鼬と雷獣はまた同時に訊いた。
「そうだ。私があいつの足らぬ部分を補い、あいつの支えとなり、そうして世の悪霊を共に打ち払い、ずっと」
「夫婦になりたかったのかキイ?」スルグーンが訊いた。
「――」マトウは吃驚したように眼を見開いた。「まさか」声を枯らす。「でも、もしあいつが望むのであれば、私はそうなっても」
「でも望まなかったんだろ、ご主人さまは」リョーマは低い声で言った。
「――」マトウが、仔犬を恐る恐るのように見る。
「望まないだろうなチイ、あいつなら」スルグーンは頷く。
「そうでやすね」ケイキョも頷く。「何しろ人間が嫌い――じゃなくて、人間から特別な感情を向けられるのが嫌いな、お方でやしたからねえ」
「――」マトウは瞬きも忘れて床を見た。
「マトウ、様」リシは戸惑い、ただ主を呼ぶだけだった。
 マトウは無言で器を差し出し、リシは再びそれに酒を注いだ。

 

◇◆◇◆次号へ◆◇◆◇
 

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評価:
(2019-04-29)
コメント:心は生れた時に目覚め力は成長とともに増幅し技は修業によって磨かれる──このディメンションに生れた者は、ただ闘いを覚える為育って行く。そこで出会った少女シャナと少年サイ。二人に待ち受ける運命とは──

葵マガジン 2020年02月22日号

  • 2020.03.10 Tuesday
  • 10:17

JUGEMテーマ:小説/詩

 

◇◆◇◆聡明鬼◆◇◆◇
第88話 共に在るもの(全100話)

 しかし、どうなのだろう――
 閻羅王は今、手許の生死簿を見下ろしていた。
 いつもの所作ではある。
 だが今日それを眺めつつ想うことは、不可思議の念の下にあった。
 手許に開くのは、リンケイについて書かれてある所だ。
 そこには、マトウという女――リンケイと師を同じくするという陰陽師の名が、恰もまとわりつくかのように散りばめられている。
 だがリンケイ本人は、それほどにもマトウという女を重く見ているようではなかった――それどころか名は思い出してもすぐに顔までは思い出せずにいたほどだ。
 見たところそれは決して、リンケイがわざと知らぬ振りをしているというのでもなさそうだった。
 けれど今見ている生死簿には――
「見方によっては」閻羅王は独り呟いた。「龍駿――聡明鬼よりもずっと重大な存在として記されておるな」
 ふう、と息をつく。
 このことは、さきほどまで一緒に居たリンケイに告げることはなかった。
 不可思議ではあるが、まだリンケイ本人が知るべきことではない。
 まだ、リンケイ本人が知ってよいことでは、ない。
「その時が来れば」また、独り呟く。「本人にも、儂にも判ることだ」

 

          ◇◆◇

 

「逃げるのではない」マトウは力の籠もった声で皆に語った。「道を探すのだ。あるべき、正しき理の下の道を」
「では」群衆の中の一人が問う。「鬼が襲って来ても、闘ってはならぬというのですか」
「身を隠し護りながら、言葉をかける術を探るのだ」マトウは答える。
「そんなこと」
「できっこありません」
「鬼に言葉など通じるわけがない」
 人々は口々に訴える。
「闘えば我等尊き人間が、鬼と同じ類の者となってしまう」マトウはひるまない。「我等人間は闘いではなく理と智をこそ、鬼たちに示し向けねばならぬ」
「――」
「でも」
「どう、やって」
 人々は戸惑う。
 今日のマトウの話の内容は、群集たちをまさに戸惑わせるものであった。
 人々が期待していたのは、もっと卑近な、実行し易い心の持ち方、行いの在り方についての教えだったのだ。
 しかし今日のマトウは、突然のように現実的な、そして出来る事ならば誰しもが見えぬ振りをして通り越してしまいたい“もの“を、直視させようと働きかけてくるのだった。
 群集の後ろの方に並ぶ者の中には、そっと足音を忍ばせて場を立ち去る者さえ幾足かいた。
 周囲に立つリシら従者は、そういった者たちを引き止めるべからずとの指示をあらかじめマトウより受けていた。
 なのでその場に佇んだまま微動だにしなかった。
「今、鬼に対峙できる降妖師たちとの連携を図っているところだ」マトウは声を張り上げる。「今、地獄の鬼どもは、一人の鬼の持つ打鬼棒という武器を恐れ、陽世に逃げ込んで来ている。そいつらが土地爺をそそのかし、脅かして、人間たちを足元にひれ伏させようと目論んでいるのだ。人間に打鬼棒は効かぬ。逆にそれを持つ降妖師が味方についてくれれば、我等とて鬼を恐れることなど少しもないのだ」
「打鬼棒」
「降妖師」
「おお」
「それがあれば」
「その人が居れば」
「鬼に勝てる!」
「我ら人間が、鬼に勝てる!」
「違う」マトウは首を振る。「勝つ負けるなどは考えるな。ただそれがあれば身を護れるというだけのことだ」
「しかし鬼どもに話など通じませんよ」
「叩き殺すしかありません」
「そうだ」
「そうだ」
「話を聞け」マトウは叫ぶが、人間たちはもはや従おうともしない。
「マトウ様」リシが流石に見かね、声をかけた。「収めましょうか」
「――」マトウは唇を噛む。
「お前たち」リシは振り向き、わあわあと騒ぐ聴衆に呼びかけた。
「玉帝さまがついていて下さる」だが続けて叫んだのは、マトウだった。
 群集は、しんと静かになった。
「私には、玉帝さまのご加護があるのだ」マトウは自分の胸に手を当てた。「鬼など、恐れてはいない。だが玉帝さまは血で血を争う地獄の様相など、この陽世の上に求めておられるだろうか。断じてそれはない」
「玉帝、さま」人々の口に、今初めてその名を聞いたかのように恐る恐るその名が上った。
「そうだ。玉帝さまだ」マトウは大きく頷く。「お前たちが私に従い、私と共にあるならば、無論お前たちも玉帝さまの加護の下に入れるのだ」
「玉帝さまが、我々をお守り下さるのですか」
「おお」
「素晴らしい」
「マトウ様と共に」
「我等もマトウ様と共に!」
 新たな叫びが次々と群集たちの中に巻き起こる。
「人間として、智恵と理性を取り戻すのだ」マトウはまとめにかかった。「鬼どもの足下になど、決してひれ伏さぬ。我等には玉帝さまの加護の光が常にあるのだ」言いながらマトウは、己の懐から胸に下げる碧の玉を取り出し、鎖を首から外して高く持ち上げた。
 壁の玉は陽の光を受け、きらきらと眩く輝いた。
 リシもまた、その碧の玉を眩しそうに眼を細めて仰いだ。
 ――聡明鬼……
 胸に想うのは、蓬髪と逞しく大きな背、そして自分の頬にそっと触れた、無骨な手。

 

「マトウの傍に居ろ」

 

 囁くように自分に告げた、声。
「皆の者」リシは碧玉を仰いだまま、声を高めた。「マトウ様と共にあらん」
「おお」
「うおお」
 人々は一斉に腕を高く掲げ、声を揃えた。
 マトウがリシを見、にこりと微笑む。
 リシもそれに応え、深く頷いた。
 共に心に在るのはきっと、碧の色を持つ眸だ。

 

          ◇◆◇

 

「鬼たちの様子はどのようになっているか」リンケイはことある毎に鬼差たちに訊いて回った。
 鬼差たちの答えは、初めは「特に変わりはない」「不穏な様子ではない」というものだった。
 だが次第に、少しずつ「なんだかそわそわして落ち着かぬ風だ」「我等が近づくだけでも体をびくつかせたり縮こまったりする鬼が出てきた」というものが交ざって来たのだ。
 リンケイは腕を組み、考えた。
 恐らくは、テンニが戻ってきたのだろう。
 体は――もしかすると、回復してしまったのかも知れぬ。
 どのようにしてか、それは今考えても埒の開かぬ事だ。
 自分への呪いの儀式の後、リューシュンはすぐに陰鎮鷲椶悗詫茲覆った。
 それが恐らくは、このテンニの復帰、ないし回復に関わりのある事には違いないだろう。
 そして実際にテンニが復帰、回復したのであれば、リューシュンは――或いはリューシュンとキオウ、ケイキョ、スルグーンらは、その手立てに失敗したのだ。
 事態は、猶予ならぬものとなって来たというわけだ。
 リンケイはくるりと向きを変え、コントクとジライの元を目指し走った。
 彼らは今、牛頭と馬頭の元にて三叉の手ほどきを受けていた。
 まずは、伝えよう。
 テンニが間もなく、森羅殿へとやって来るだろう事を。
 そして自分も剣を抜き、いつでも対峙できるよう態勢を整えておくのだ。
 リューシュンは――
 今、聡明鬼がどのような状態でどこを歩きまたは走っているのか、それも与り知らぬことではある。
 だが確実に、間違いなく、リューシュンもまた森羅殿を目指しているはずだ。
 どちらが、早く辿り着くのか。
 リンケイは走りながら、腰の鞘から斬妖剣を抜いた。
 ――共に、闘おうぞ。
 心に、黒き蓬髪と碧の色の眸を持つ鬼の顔を思い描き、にこりと笑いかける。
 聡明鬼が、深く頷く様子が眼に浮んだ。

 

          ◇◆◇

 

「山へ、行こうチイ」
 スルグーンは、そう提案した。
 提案したのは、ケイキョ、リョーマ、そして従者として得たフラにである。
「山?」皆は当然のように訊き返した。
「山って……山賊たちのいる、あの山ですかい?」ケイキョが問う。
「うん。そうだキイ」スルグーンは頷く。
「でも、何をしに?」リョーマも問う。
「おれたちが去った後、どうなったかを確かめに行くんだチイ」スルグーンは応える。
「つまり……山賊が勝ったのか、鬼どもが勝ったのか、を?」フラも問う。
「そうだキイ」もう一度頷く。
「それを確かめて、それからどうするんでやすか?」またケイキョが問う。
「山賊が勝っていたなら、それはそれでひとまず置いといていいチイ」スルグーンは皆を見回す。「けど、もしも鬼どもが勝っていたなら――」
「――」三足は、言葉をなくした。
 それぞれが、肌にうすら寒いものを感じたような顔をする。
「人間が、危ないってことだチイ」スルグーンは低く言った。「今、マトウとリシが、人間たちにいろいろ説いている所だキイ」
「――ああ」ケイキョが呑み込めた顔で頷く。「鬼どもがそれを知ったら」
「そうだチイ」スルグーンはばさり、と翼をはたいて空中に浮んだ。「マトウとリシが、危ないことになるキイ。行くぞチイ」
 そうして二頭の龍馬と、それぞれの背に乗った精霊そして奇獣は、山へと向かった。
 そこで見たものは、草木のすっかり焼け落ちた、乾いてからからの砂ばかりとなった山肌、瓦礫と化した山賊たちの元の住処、投げ飛ばされあちこちに転がる大小の岩、動物の、鳥の、そして人間の、骸の数々――
「鬼どもが、いない」リョーマが慄然と呟く。
「逃げたのか」フラも、辺りを見回しながら言う。
「死んでるのは人間たちだけでやす、ね」ケイキョは声を絞り出すように見た様を口にする。
「鬼どもは、殺されたとしても陰鎮鷲椶北瓩辰燭」スルグーンが考えを述べる。「鬼同士で喰らい合ったかチイ」
「うぐ」ケイキョが鼬の顔を歪める。
「どっちにしても、人間が勝ったようには見えないキイ」スルグーンは猫の眼を左右に揺らして言った。「鬼どもは山を降りて行ったんだチイ」
「じゃあ」リョーマがしゅるり、と馬の尾を巻く。「マトウたちの所へ」
「うん」スルグーンも頷く。「急ごうキイ」
 四足は、壮絶な戦の跡と成り果てた山を離れ、再び飛んだ。

 

          ◇◆◇

 

 天心地胆を抜けようとして、リューシュンははっと立ち止まった。
 自分が抜け出るのを押し戻すかのように、邪悪なものの気がその黒い淵の向こうから近づいて来るのを察したからだ。
 案の定、リューシュンよりも先にわらわらと、幾足もの鬼どもが姿を現して来たのだった。
「お前ら、何処に行くんだ」リューシュンは声を張り上げた。
「なんだ」
「お前は」
「聡明鬼か」
「お前こそ何処に行く」
「打鬼棒で血にされに行くのか」
「馬鹿な奴だ」
 鬼どもは肩を揺すってリューシュンを馬鹿にし笑い、さっさと立ち去ろうとした。
「待て」リューシュンは怒鳴った。「テンニがまた来たんだな。陰鎮鷲椶法
「ああ」
「来た」
「自分で見て来ればいい」
「そうしてさっさと血にされてしまえ」
 遠ざかりながら鬼どもは答える。
「それでお前らは、何処へ行くんだ。まさかまた、陽世に行くつもりじゃないだろうな」
 リューシュンの、怒声の問いかけに鬼どもは答えず、さっさと行こうとした。
「行かせるか」リューシュンは走り、近くの鬼から肩を掴んで引き戻した。
「貴様」
「離せ」
「人間の手下になりやがって」
「違う」リューシュンは怒りながらも鬼どもに手を伸ばす。「違うが、お前らの手下でもない。人間たちを傷つけに行くことは許さん」

 

◇◆◇◆次号へ◆◇◆◇

 

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(2019-05-01)
コメント:「私」はその朝巨大なカエルに遭遇し、路上は命を賭した「だるまさんがころんだ」の戦場と化した──表題作ほか「さくらマーケット」「センチメンタル付属物」収録。女性主人公の、少しだけ不思議な日常世界を描いた短編集。
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葵マガジン 2020年02月15日号

  • 2020.03.10 Tuesday
  • 10:07

JUGEMテーマ:小説/詩

 

◇◆◇◆聡明鬼◆◇◆◇


第87話 訣別(全100話)

 

 大きな、背中だったな――
 そんなことを想う。
 聡明鬼のことだ。
 リシは、キオウという鬼が妻とともに一瞬で消えてしまった時、自身では一体何が起こったのかまったくわからないまま、激しく混乱し叫び呻き声を挙げてうずくまる聡明鬼――やがて力尽き果てたかのように地に突っ伏したまま震えるだけで呼びかけにもまったく応えぬ様となった聡明鬼を、龍馬トハキの背の上に乗せようとした。
 だが聡明鬼の逞しい体はびくとも動かせず、リシは為すすべもなかったのだった。
 トハキが尻尾を伸ばして来、聡明鬼の体に巻きつけ、持ち上げて自分の馬の背に乗せてくれた。
 つまり聡明鬼をトハキに乗せたのはリシではなく、トハキ自身だったというわけだ。
 にも関わらず、聡明鬼に訊かれた時リシは、自分がトハキの背に聡明鬼を乗せたとした。
 無論そのことでトハキが自分に怒ったりするなどということはない。
 しかし、リシは咄嗟にそのような“嘘”をついたのだ。
 何故だろう――
 自分でもよくわからないのだが、それはある意味では聡明鬼に対する虚栄心――負けたくないという、根拠のない想いの所為でもあったろうし、またある意味では聡明鬼に、自分への感謝の念を持たせたいという想いでもあったろう。
 どちらにせよ、決して清い心の在り方とはいえない。
 リシは眉をひそめ、ふう、と嘆息した。
 自分は、なんという未熟な行動をしてしまったのだろう――それにしても。
 大きな、背中だったな――
 邸まで戻る間、トハキの馬の背の上で支え続けた聡明鬼の背中を、また想う。
 支え続けた、といえども、それについてもやはり、大部分はトハキが飛びながら馬の尻尾を聡明鬼に巻きつけ落っこちないように支えてくれていたというのが実情だ。
 リシ自身はただ、後ろから聡明鬼の背に手を添えていたにすぎない。
 その背中のことを、想っているのだ。
 聡明鬼自身は一晩経つと大分気力を取り戻したようで、顔つきも以前のごとく意志に満ちたものになっていた。
 そのことには、リシも大いに安堵しているのだ。
 だがその先のことを、何故かリシは心の中で封じてしまい、見ないように――想わないようにしていた。
 それは、リシ自身でも気づかぬうち、無意識にそうしていたのだった。
 それはつまり、元気を取り戻した聡明鬼が、これからどうするのか、ということだった。
 けれど、どんなに見ないように、気づかないようにしたところで、それが立ち消えてしまうことは決してなかった。

 

「聡明鬼様ご一行が、明日お発ちになるとのことでございます」

 

 それを聞いたのは、マトウの室で壁際に控えていた時だった。
 従者がマトウに報せに来たのだ。
「まあ」マトウはしばらく言葉を失っていた。
 マトウにとっても、聡明鬼たちが去ってしまうことは寂寥に値することなのだ。
 そしてリシにとっては。
 リシは、それを聞きはしたが特に顔を振り上げるでも眼を見開くでもなく、ただ壁際に貼り付くように控え、前を見ていた。

 

          ◇◆◇

 

 ムイの、挽いたものを見る。
 それは、小さな茶色の甕の中に収められてあった。
 その天紙を破り、木蓋を引き抜き、テンニは中を覗き込んでいた。
 鬼の鼻に、懐かしき草の香りが届く。
 思わず、どこまでも吸い取らんとばかり大きく息を吸う。
 眼を閉じる。
 そのまま、テンニは息を止めていた。
 やがてゆっくりと、息を吹き出す。
 甕を持つ鬼の手が、小さく震え出す。
 ――儂は。
 隻眼を、ゆっくりと開く。
 ――これを……やっと手に、入れた。
 隻眼で、もう一度甕の中を覗き見る。
 ムイは黒味がかった濃い緑色をしており、砂のように乾いている。
 テンニは鬼の爪の先にほんの少しだけその粉をすくい取り、傍に用意した器の水の中に落とした。
 緑色の粉が、水面に浮かぶ。
 甕に木蓋を嵌め込み、そっと下に置いて、テンニは震える手で水の器を取り上げた。
 片方だけになった手で、持つ。
 黒く焦げたままの、鬼の手だ。
 そしてテンニは、その水を飲んだ。
 眼を閉じ、仰のいて、自分の体の中に水が――ムイが落ちてゆくのをじっと感じ取る。
 ――ああ。
 テンニは今、確かに思った。
 ――儂は……生き返る。
 その意識は、妙なものであった。
 鬼となった今、投胎もしていないのに「生き返る」ことはあり得ないのだ。
 にも関わらずテンニは今、間違いなく自分がこれから生き返るのだと信じて疑わなかった。
 一度死に、鬼となってまた死にかけたが、今度は鬼として生き返るのだ。
 ムイがあれば、自分は閻羅王に変わり人間と鬼との生死を、いつまででも掌握し管理し続けられる。
 陽世と陰界すべてを、支配し続けられる。
 ムイがあれば。

 

          ◇◆◇

 

 日が変わった。
 だが、今はまだ夜だ。
 真夜中で、半月は姿を隠している。
 それに代り小さな星々が、ここぞとばかり全天を覆い、ささやかながら輝きを競い合っている。
 庭の芝を、鬼の足が踏みしめる。
 星空を仰ぎ、しばらく眺めて、また一歩を踏み出す――そして止まる。
 行く手に佇む者がいたのだ。
 闇の中に立つ黒衣の者だが、鬼はそれが誰であるのかすぐにわかった。
「どうした」訊く。「こんな時間に」
「――それはこちらの科白だ」黒衣が答える。「私は今宵、見張りの番だ」
「そうなのか」鬼は言い、また歩を進める。
「何処へ行く」黒衣が訊く。「こんな時間に」
「――」鬼は少し置いて「地獄へ」と答えた。
 それから二足は闇の中、少しずつ慣れてきた眼で無言のまま互いを見た。
「世話になったな」鬼が言う。
「――」黒衣はいまだ言葉もなく、ただ鬼を見ていた。
 鬼はまた足を踏み出し、黒衣の傍を通り過ぎて行こうとした。 
 黒衣は振り向くが、言うべき言葉がわからない。
 首を振る。
「行くのか」
 リシは、大きな背中に投げつけるように、訊いた。
 リューシュンは肩越しに振り向き「ああ。行く」と答えた。
「もう、行くのか」リシはまた訊いた。
「ああ」リューシュンは頷いた。
「――」リシはじっと聡明鬼を見た。
「いろいろあったが、ありがとうな」リューシュンはにこりと笑った。「じゃあ」
「戻って来るのか」リシは急いでまた訊いた。
「――」今度はリューシュンが陰陽師見習いをじっと見た。「どうだろうな」首を傾げる。
「戻って来い」リシは続けて言ったが、その声は上ずり震えていた。
「なんでだよ」リューシュンは口を尖らせた。
「なんでもだ」
「どうしてだよ」
「どうしてもだ」
「――」リューシュンは少し黙ったが「ははは」と突然笑い出した。
「何が可笑しい」リシが肩をいからせる。
「最後まで、同じだな」リューシュンは肩を揺すって笑いながら言った。
「何が、同じなのだ」
「お前と俺の会話がだよ。最後まで、おんなじことを言い合ってる」
「――」リシは目線を足元に落とした。「最後……?」
「ああ」リューシュンは頭を掻いた。「すまん。最後じゃないかもな」
「また」リシは強く眼を閉じた。
「うん」リューシュンは頷いた。
「いつか」リシは眼を閉じたまま、また言った。
「うん」リューシュンも、また頷いた。
「――」リシは眼を開けもう一度聡明鬼を見た。
 聡明鬼も頷きながら陰陽師見習いを見た。
「きっと」リシはリューシュンを見ながら続けて言ったが、その声はかすれて声にならなかった。

 

 リューシュン

 

「――」リューシュンは、リンケイが陰鎮鷲椶帽圓前最後に自分の名を呼んだ時の声――それも声にならない、風のような声だった――を思い出した。
「――会いたい」
 リシは必死の様相で声を絞り出したが、それと同時に彼女の眼からは涙が溢れて頬にすべり落ちた。
 リューシュンが何かを答えようとする前に、その手は自然とリシの頬に伸びて涙を指で拭ってやっていた。
「ああ」それから、リューシュンは答え、そして笑った。「会おう」
 リシは自分の涙を拭う鬼の手をそのままに任せ、初めてにこりと微笑んだ。
 少し悲しげにも見える、微笑みだった。
 リューシュンは最後にもう一度、リシの頬に手を触れた。
 初めて触れる女の頬は柔らかく、その感触は手に心地よかった。
「マトウの傍にいろ」リューシュンは手を頬に触れたまま言った。
 リシは小さく頷いた。
「玉帝が護ってくれる」そう言いながらリューシュンは頬から手を離した。
 リシはまた小さく頷いた。
「またな。行ってくる」
 そう言って、聡明鬼は天心地胆に沈み込むように消えた。
 リシは真夜中の庭に、独り立っていた。
 今宵は見張りの番だ――彼女は聡明鬼に、そう言った。
 それも、本当のことではなかった。
 本当の見張りの番の者と、交代した――してもらったのだ。
 なんとはなしに、聡明鬼が夜の内に発つのではないかと、思い立ったからだ。
 ――最後まで……か。
 聡明鬼の消えた地点から、頭上の星空に眼を移す。
 ――最後まで、私も正直な行動を取らずじまいだった……否。
 ぎゅっと眼を瞑る。
 ――最後では、ない。
 自らに言い聞かせるかのように、リシは心で強くそう思った。
 それまでに自分の為すべきことも、ちゃんと解っているのだ。
 それはつまり、聡明鬼が自分に頼んだこと、人間と鬼との諍いを止めさせ間を取り持つということだ。
 眼を開ける。
 もう一度、涙が伝い落ちた。
 拭ってくれる鬼の指は、もうない。
 リシは、自分でそれを拭いた。
「また、会おう」
 鬼の消えた闇に向かって、呟く。
「ありがとう」

 

         ◇◆◇

 

 ――柔らかかったな。
 陰陽界を歩きながら、自分の手を見る。

 

 ざああああ

 

 周囲では今日も風ではない風の音が渦巻く。
 ――リンケイに、話してやろう。
 手を見る内、ふとそんなことを思う。
 ――あいつ、女を抱いたから自分の勝ちだとか何とか言っていやがったからな……まあ、俺も抱いたわけじゃあないが。
 手を下ろし、歩を早めて歩く。
 ――そうだ、女に『あれをしてやった』と言ってやろう。
 歩きながら、にやりと笑う。
 ――あいつ、あの切れ長の目を見開いて『本当か』と驚くだろうな。
 くくく、と歩きながら肩を揺する。
 そんなことを独り思う内、潜るべき天心地胆が見えて来た。
 リューシュンは顔を引き締めて、そこへ飛び込んだ。

 

◇◆◇◆次号へ◆◇◆◇
 

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コメント:神との邂逅を繰り返すことで、石は透明度を増してゆく──トレシアは自分の持つべき石を見つけたばかりだった。神に訊ねることはいつも一つ。愛する人にいつめぐり合えるのか──そんな無邪気な少女の前に現れた少年、ラミイ。二人は楽しく過ごし、二人だけの秘密を分かち合った。けれど平和な日々はつづかなかった──長編恋愛ファンタジー。

葵マガジン 2020年02月15日号

  • 2020.02.19 Wednesday
  • 16:42

JUGEMテーマ:小説/詩

 

◇◆◇◆聡明鬼◆◇◆◇


第87話 訣別(全100話)

 

 大きな、背中だったな――
 そんなことを想う。
 聡明鬼のことだ。
 リシは、キオウという鬼が妻とともに一瞬で消えてしまった時、自身では一体何が起こったのかまったくわからないまま、激しく混乱し叫び呻き声を挙げてうずくまる聡明鬼――やがて力尽き果てたかのように地に突っ伏したまま震えるだけで呼びかけにもまったく応えぬ様となった聡明鬼を、龍馬トハキの背の上に乗せようとした。
 だが聡明鬼の逞しい体はびくとも動かせず、リシは為すすべもなかったのだった。
 トハキが尻尾を伸ばして来、聡明鬼の体に巻きつけ、持ち上げて自分の馬の背に乗せてくれた。
 つまり聡明鬼をトハキに乗せたのはリシではなく、トハキ自身だったというわけだ。
 にも関わらず、聡明鬼に訊かれた時リシは、自分がトハキの背に聡明鬼を乗せたとした。
 無論そのことでトハキが自分に怒ったりするなどということはない。
 しかし、リシは咄嗟にそのような“嘘”をついたのだ。
 何故だろう――
 自分でもよくわからないのだが、それはある意味では聡明鬼に対する虚栄心――負けたくないという、根拠のない想いの所為でもあったろうし、またある意味では聡明鬼に、自分への感謝の念を持たせたいという想いでもあったろう。
 どちらにせよ、決して清い心の在り方とはいえない。
 リシは眉をひそめ、ふう、と嘆息した。
 自分は、なんという未熟な行動をしてしまったのだろう――それにしても。
 大きな、背中だったな――
 邸まで戻る間、トハキの馬の背の上で支え続けた聡明鬼の背中を、また想う。
 支え続けた、といえども、それについてもやはり、大部分はトハキが飛びながら馬の尻尾を聡明鬼に巻きつけ落っこちないように支えてくれていたというのが実情だ。
 リシ自身はただ、後ろから聡明鬼の背に手を添えていたにすぎない。
 その背中のことを、想っているのだ。
 聡明鬼自身は一晩経つと大分気力を取り戻したようで、顔つきも以前のごとく意志に満ちたものになっていた。
 そのことには、リシも大いに安堵しているのだ。
 だがその先のことを、何故かリシは心の中で封じてしまい、見ないように――想わないようにしていた。
 それは、リシ自身でも気づかぬうち、無意識にそうしていたのだった。
 それはつまり、元気を取り戻した聡明鬼が、これからどうするのか、ということだった。
けれど、どんなに見ないように、気づかないようにしたところで、それが立ち消えてしまうことは決してなかった。

 

「聡明鬼様ご一行が、明日お発ちになるとのことでございます」

 

 それを聞いたのは、マトウの室で壁際に控えていた時だった。
 従者がマトウに報せに来たのだ。
「まあ」マトウはしばらく言葉を失っていた。
 マトウにとっても、聡明鬼たちが去ってしまうことは寂寥に値することなのだ。
 そしてリシにとっては。
 リシは、それを聞きはしたが特に顔を振り上げるでも眼を見開くでもなく、ただ壁際に貼り付くように控え、前を見ていた。

 

          ◇◆◇

 

 ムイの、挽いたものを見る。
 それは、小さな茶色の甕の中に収められてあった。
 その天紙を破り、木蓋を引き抜き、テンニは中を覗き込んでいた。
 鬼の鼻に、懐かしき草の香りが届く。
 思わず、どこまでも吸い取らんとばかり大きく息を吸う。
 眼を閉じる。
 そのまま、テンニは息を止めていた。
 やがてゆっくりと、息を吹き出す。
 甕を持つ鬼の手が、小さく震え出す。
 ――儂は。
 隻眼を、ゆっくりと開く。
 ――これを……やっと手に、入れた。
 隻眼で、もう一度甕の中を覗き見る。
 ムイは黒味がかった濃い緑色をしており、砂のように乾いている。
 テンニは鬼の爪の先にほんの少しだけその粉をすくい取り、傍に用意した器の水の中に落とした。
 緑色の粉が、水面に浮かぶ。
 甕に木蓋を嵌め込み、そっと下に置いて、テンニは震える手で水の器を取り上げた。
 片方だけになった手で、持つ。
 黒く焦げたままの、鬼の手だ。
 そしてテンニは、その水を飲んだ。
 眼を閉じ、仰のいて、自分の体の中に水が――ムイが落ちてゆくのをじっと感じ取る。
 ――ああ。
 テンニは今、確かに思った。
 ――儂は……生き返る。
 その意識は、妙なものであった。
 鬼となった今、投胎もしていないのに「生き返る」ことはあり得ないのだ。
 にも関わらずテンニは今、間違いなく自分がこれから生き返るのだと信じて疑わなかった。
 一度死に、鬼となってまた死にかけたが、今度は鬼として生き返るのだ。
 ムイがあれば、自分は閻羅王に変わり人間と鬼との生死を、いつまででも掌握し管理し続けられる。
 陽世と陰界すべてを、支配し続けられる。
 ムイがあれば。

 

          ◇◆◇

 

 日が変わった。
 だが、今はまだ夜だ。
 真夜中で、半月は姿を隠している。
 それに代り小さな星々が、ここぞとばかり全天を覆い、ささやかながら輝きを競い合っている。
 庭の芝を、鬼の足が踏みしめる。
 星空を仰ぎ、しばらく眺めて、また一歩を踏み出す――そして止まる。
 行く手に佇む者がいたのだ。
 闇の中に立つ黒衣の者だが、鬼はそれが誰であるのかすぐにわかった。
「どうした」訊く。「こんな時間に」
「――それはこちらの科白だ」黒衣が答える。「私は今宵、見張りの番だ」
「そうなのか」鬼は言い、また歩を進める。
「何処へ行く」黒衣が訊く。「こんな時間に」
「――」鬼は少し置いて「地獄へ」と答えた。
 それから二足は闇の中、少しずつ慣れてきた眼で無言のまま互いを見た。
「世話になったな」鬼が言う。
「――」黒衣はいまだ言葉もなく、ただ鬼を見ていた。
 鬼はまた足を踏み出し、黒衣の傍を通り過ぎて行こうとした。 
 黒衣は振り向くが、言うべき言葉がわからない。
 首を振る。
「行くのか」
 リシは、大きな背中に投げつけるように、訊いた。
 リューシュンは肩越しに振り向き「ああ。行く」と答えた。
「もう、行くのか」リシはまた訊いた。
「ああ」リューシュンは頷いた。
「――」リシはじっと聡明鬼を見た。
「いろいろあったが、ありがとうな」リューシュンはにこりと笑った。「じゃあ」
「戻って来るのか」リシは急いでまた訊いた。
「――」今度はリューシュンが陰陽師見習いをじっと見た。「どうだろうな」首を傾げる。
「戻って来い」リシは続けて言ったが、その声は上ずり震えていた。
「なんでだよ」リューシュンは口を尖らせた。
「なんでもだ」
「どうしてだよ」
「どうしてもだ」
「――」リューシュンは少し黙ったが「ははは」と突然笑い出した。
「何が可笑しい」リシが肩をいからせる。
「最後まで、同じだな」リューシュンは肩を揺すって笑いながら言った。
「何が、同じなのだ」
「お前と俺の会話がだよ。最後まで、おんなじことを言い合ってる」
「――」リシは目線を足元に落とした。「最後……?」
「ああ」リューシュンは頭を掻いた。「すまん。最後じゃないかもな」
「また」リシは強く眼を閉じた。
「うん」リューシュンは頷いた。
「いつか」リシは眼を閉じたまま、また言った。
「うん」リューシュンも、また頷いた。
「――」リシは眼を開けもう一度聡明鬼を見た。
 聡明鬼も頷きながら陰陽師見習いを見た。
「きっと」リシはリューシュンを見ながら続けて言ったが、その声はかすれて声にならなかった。

 

 リューシュン

 

「――」リューシュンは、リンケイが陰鎮鷲椶帽圓前最後に自分の名を呼んだ時の声――それも声にならない、風のような声だった――を思い出した。
「――会いたい」
 リシは必死の様相で声を絞り出したが、それと同時に彼女の眼からは涙が溢れて頬にすべり落ちた。
 リューシュンが何かを答えようとする前に、その手は自然とリシの頬に伸びて涙を指で拭ってやっていた。
「ああ」それから、リューシュンは答え、そして笑った。「会おう」
 リシは自分の涙を拭う鬼の手をそのままに任せ、初めてにこりと微笑んだ。
 少し悲しげにも見える、微笑みだった。
 リューシュンは最後にもう一度、リシの頬に手を触れた。
 初めて触れる女の頬は柔らかく、その感触は手に心地よかった。
「マトウの傍にいろ」リューシュンは手を頬に触れたまま言った。
 リシは小さく頷いた。
「玉帝が護ってくれる」そう言いながらリューシュンは頬から手を離した。
 リシはまた小さく頷いた。
「またな。行ってくる」
 そう言って、聡明鬼は天心地胆に沈み込むように消えた。
 リシは真夜中の庭に、独り立っていた。
 今宵は見張りの番だ――彼女は聡明鬼に、そう言った。
 それも、本当のことではなかった。
 本当の見張りの番の者と、交代した――してもらったのだ。
 なんとはなしに、聡明鬼が夜の内に発つのではないかと、思い立ったからだ。
 ――最後まで……か。
 聡明鬼の消えた地点から、頭上の星空に眼を移す。
 ――最後まで、私も正直な行動を取らずじまいだった……否。
 ぎゅっと眼を瞑る。
 ――最後では、ない。
 自らに言い聞かせるかのように、リシは心で強くそう思った。
 それまでに自分の為すべきことも、ちゃんと解っているのだ。
 それはつまり、聡明鬼が自分に頼んだこと、人間と鬼との諍いを止めさせ間を取り持つということだ。
 眼を開ける。
 もう一度、涙が伝い落ちた。
 拭ってくれる鬼の指は、もうない。
 リシは、自分でそれを拭いた。
「また、会おう」
 鬼の消えた闇に向かって、呟く。
「ありがとう」

 

         ◇◆◇

 

 ――柔らかかったな。
 陰陽界を歩きながら、自分の手を見る。

 

 ざああああ

 

 周囲では今日も風ではない風の音が渦巻く。
 ――リンケイに、話してやろう。
 手を見る内、ふとそんなことを思う。
 ――あいつ、女を抱いたから自分の勝ちだとか何とか言っていやがったからな……まあ、俺も抱いたわけじゃあないが。
 手を下ろし、歩を早めて歩く。
 ――そうだ、女に『あれをしてやった』と言ってやろう。
 歩きながら、にやりと笑う。
 ――あいつ、あの切れ長の目を見開いて『本当か』と驚くだろうな。
 くくく、と歩きながら肩を揺する。
 そんなことを独り思う内、潜るべき天心地胆が見えて来た。
 リューシュンは顔を引き締めて、そこへ飛び込んだ。

 

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葵マガジン 2020年02月01日号

  • 2020.02.03 Monday
  • 09:13

JUGEMテーマ:小説/詩

 

◇◆◇◆聡明鬼◆◇◆◇


第85話 助力の形(全100話)

 

 廊下を、歩く。
 聡明鬼の前をリシが歩き、導く。
 リシの手に持つ灯明が揺らぎ、足許をぼんやりと照らす。
 窓の外の半月が、それを助けるように光を差し込む。
「お前が、連れ帰ってくれたんだってな」歩きながら、聡明鬼が言った。
 リシは歩きながら顔を少しだけ横に向け「ああ」と答えた。
「お前が、トハキに俺を乗せてくれたんだな……大変だったろう」
「――覚えていないのか」リシが訊く。
「うん」リューシュンは頷いた。「覚えてないんだ」
「そうか」リシは言って、立ち止まった。
 リューシュンも立ち止まる。
 リシはそこにある扉を叩いた。
「どうぞ」中からマトウが答える。
 リシが扉を開け、
「聡明鬼さまをお連れ致しました」
 そう言い、リューシュンに道を譲る。
 リューシュンは何も言わず室に入り、背後で扉が閉ざされた後もそこに立っていた。
「まあ、どうぞおかけになって下さいまし」マトウは椅子を勧めた。
 リューシュンはやはり黙ったまま、椅子に腰掛けた。
「それで」マトウは用意していた茶を器に注ぎ、差し出す。「私にお話とは、どのようなことでしょう」
「人間と」リューシュンは初めて口を開いた。「鬼との、仲を取り持って欲しいんだ」
「人間と、鬼」マトウはいささか驚いたように、顔から微笑みを一瞬消した。「つまり今の陽世で起きている諍いを止めよと」
「すべてを止めることは叶わないかも知れない」リューシュンは俯いた。「それは、あんたにとっても危険なことだ」
「そんな」マトウは首を振った。「私めの身などを案じて下さいますな」
「あんたは鬼のことが嫌いか」リューシュンは顔を上げ、訊いた。「本当のところは」
「――」マトウは少しの間言葉を返せなかったが、顎を引くようにして「特にそのような感情を抱いたことはありませぬ」と答えた。「ですが恐らくそれは、私が法術を身につけており鬼を恐れる必要もないからかも知れませぬ」
「恐れる、必要」リューシュンは繰り返した。「人間たちは、鬼を恐れるから排除したいと言っているのか」
「それもありましょう」
「けど、鬼は――土地爺は、人間の幸福の為に」
「税として金銀を収めさせる」マトウが後を引き取った。
「――それは」
「もし鬼が、無償で人間たちの幸せの為に身を粉にして働くのであれば、人間も鬼を恐れたりはしないでしょう。けれど人間から見れば、土地爺とは財を奪うもの――財を奪って、それを閻羅王に収めご機嫌を取り、自分だけが安穏と暮らすもの、そういう風に見えているのですよ」
「――それだけじゃ、ないのに」リューシュンは呆然と口にした。
 薄々は――否、確実にそうなのだということは知っていた。
 けれど今改めて、人間であるマトウの口からそれを聞かされることは、若き土地爺にとっては身を切られるような思いであったのだ。
「もちろんあなた様は、そざや町の人間たちの為にお尽くしになって来られたのでしょう」マトウは微笑んだ。「けれど土地爺の中にはあなた様と違って、文字通り搾取を行う非道の鬼も確かにいるのですよ。元来人と鬼とがうまくやっていくような理は、この世にはないのです」
「そんなことはない」リューシュンは声に力を込めた。「俺は、鬼と人間とがうまく付き合っていける事を知っている。実際にその例も見ている」
「例?」マトウが訊く。
「ああ。人間と鬼とが、義兄弟になった例だ」
「まあ」マトウは嘆息した。
「それだけじゃない。この俺も」リューシュンは自分を指差した。「人間の、陰陽師とずっと一緒にやってきた」
「陰陽師?」このときマトウの眉根がすっとひそめられた。「誰ですか?」
「――」リューシュンは、しまったと思い目をぎゅっと瞑った。
 マトウがじっと見ている。
「――名は、言えん」リューシュンは苦し紛れにそう告げた。
「ええ」マトウは頷いた。「聞きますまい。何故ならそれが誰なのか、私には判りますゆえ」
「――」リューシュンは眼を見開いた。「なんだって」
「人間でありながら、鬼や妖怪を何よりも好む陰陽師」マトウは手元の器を見下ろし、それを持ち上げた。「そのような者、陽世広しといえど一足しかおりませぬ」器を睨みつけ、次にその中の茶をぐいと一気に呷る。
「――」リューシュンは何も言えずにいた。
 かた、とマトウは器を卓に置き、きっとリューシュンを見据えた。
「リンケイ」
 その名を呼ぶ。
「ですね」
「――」鬼の碧の眸は少しく揺らめいたが「ああ」と答える他なかった。
 マトウは器からいまだ手を離さず、じっとリューシュンを見つめ続けた。
 何を、想うものなのか。
 リューシュンには、わからなかった。
 リンケイとこのマトウ、陰陽師同士の二足が知り合いだったということは分かった、だがどういった知り合いで、マトウがリンケイと自分が関わりを持つことを知った今どういう想いを持つのか、自分に対しこの先どのような態度を示してくるのか、まったく予測できずにいたのだ。

 

「いいでしょう」

 

 だがマトウは、大きく頷いたのだ。
「えっ」リューシュンは寧ろ驚いた。「いい、って」
「もちろん、人間たちと鬼たちとの仲を取り持つという事についてでございます」マトウはやっと器から手を離した。
「本当か」リューシュンは背筋を伸ばした。「やってくれるか」
「ええ」マトウはもう一度頷いた。「あなた様のお役に立てる人間が、リンケイ一足などでは決してないこと、この私めが証してご覧に入れましょう」
「――」
「必ずや」マトウはにやり、と口元を広げた。「あんな男よりも遥かに、あなた様のお力になって差し上げますわ。玉帝様のお言いつけの通りに」
「――ああ」リューシュンは、やっと息をつくことができたような気がした。「頼む」
「はい」マトウは頷き「それで、リンケイは今どこに居るのでございますか」と訊いた。
「――」リューシュンは言い淀んだ。
 話して、よいものだろうか。
 そう思う。
 しかし、話そうと決意した。
 マトウも陰陽師、リンケイの為したことに理解はあるだろうし、何よりもたった今、自分の頼みを、危険も顧みず了諾してくれた者だ。
 自分も信頼の態度を示さねばならない。
「生きた人間を、生きたまま陰鎮鷲椶愾る呪いというのを、知っているか」問う。
「――」今度はマトウが言葉を失った。「はい」頷く。「……まさか」
「うん」リューシュンは、頷いた。「あいつは、生きたまま陰鎮鷲椶惺圓辰拭今もそこに居る、はずだ」
「な」マトウは声を震わせた。「何故」
「閻羅王に、力を貸す為だ」
「――閻羅王に?」マトウの眼は見開かれた。「何故」
「まさに玉帝の言っていた通りのことさ」リューシュンはゆっくりと瞬きをしながら説明した。「それが、結局は俺の力になるってことなんだ」
 マトウは眸を揺らしてしばらくの間考えていた。「――あの、ムイを持って行った相手から閻羅王を護るということでございますか」
「流石だな」リューシュンはにこりと笑った。「その通りだ」
「けれど」マトウは首を横に振った。「陰鎮鷲椶砲同⇒曚陵のもとに法技を駆使するには、いかばかりか――いえ、大いに制限が加わると思うのです、とても鬼どもに陰陽師の技がすべて通用するとは思えぬのですが」
「そうなのか?」リューシュンは驚いた。
 しかし言われてみれば確かにそうかも知れない。
 リンケイが相手にしてきたのは妖怪や精霊の類であって、鬼退治を生業としてきたわけではないのだ。
「陰鎮鷲椶箸覆譴弌∨ゞ颪砲垢訖深遒簗草なども手に入らぬでしょうし、一体どうやって……」マトウは呟いていたが「まさか」ともう一度眼を見開いた。
「何だ?」リューシュンが訊く。
「あの男」マトウはまた声を震わせる。「斬妖剣一本、剣技ひとつで鬼どもに立ち向かうつもりでいるのでは、ないでしょうね」
「――」リューシュンの中に、かつて妖魔たちを討ち払った際に見たリンケイの剣さばき、斬妖剣を振るう姿がよぎった。「あり得るな」頷く。「あいつなら」
「狡い」
 マトウの、幾分上ずった声に、リューシュンは驚いて眼を向け直した。
 マトウは俯き、唇を噛み締めていた。
「狡い」
 もう一度、かすれた声で言う。
「どう、して」リューシュンはそうとしか問えなかった。
「剣なんて……私には、使えないのに」
「――それは」
「あいつには、法力もあれば、法技にも長けているくせに……剣なんて」
「――」
「おまけに陰鎮鷲椶惺圓なんて」拳を強く握り締める。「狡いにもほどがある」
「だから、何が狡いんだよ」リューシュンは思わず両手を上に持ち上げマトウを制した。「別に、あんたとあいつが競り合う必要はないだろう」
「あの男は、私の言葉に何ひとつ耳を貸そうともしないのです」マトウは首を振り、叫ぶように言った。「私が何を教えても忠告しても、どこ吹く風といった体であっけらかんと、いつも好きなように振舞って」
「ああ」リューシュンは顔を斜め上に向けた。「そうだろうな、あいつなら」
「私を馬鹿にして、見下しているのです」
「そんなことはないだろう。あんたの考え過ぎだよ」リューシュンは苦笑した。
「いいえ」マトウはまたしても首を振る。「あいつは、私のことを能無しの役立たずの似非陰陽師と思っているのです」
「でもあんたには、多くの人間たちと上手くやっていく才能がある」リューシュンは辛抱強く語りかけた。「あいつには、リンケイには絶対できない事だ」
「――」マトウは、はっとした顔でリューシュンに眼を戻した。「――ああ」みるみる、頬が薔薇色に染まる。
 ――久しぶりだな。
 ふと、リューシュンはそんなことを思う。
 ――女の……人の頬が、薔薇色に染まっていくのを見るのは……まあ今まで見たのは人というよりも、鬼魂の頬だったが。
「聡明鬼さま」マトウは眸を潤ませて歓喜の声になった。「ああ、仰る通りでございます、私には人間たちをまとめ統べることができる……ええ、今こそその力を、あなた様の為に発揮させていただきますとも。私にできる全てのことを、ここ陽世において」
「ああ」リューシュンは頷きながら、大きく息をついた。「リンケイにはできない方法で、俺の力になってくれ」
「はい」マトウは踊り出さんばかりに両の腕を広げ微笑んだ。「必ずや」

 

          ◇◆◇

 

「話は、済んだのか」
 室を出ると、少し離れたところからリシが訊いてきた。
「ああ」リューシュンは頷いて見せた。
「そうか」リシも頷き、くるりと背を向ける。
「待っててくれたのか」リューシュンはそれから漸く気づき、訊ねた。「もう遅いのに、お前も休めばいい」
「マトウ様より言いつかっている」リシは振り向かない。「部屋に送り届けるまでが私の仕事だ」
 しばらく歩く。
「何を話したんだ」不意にリシがまた訊いた。
「――」リューシュンは少し置いて「人間たちと鬼たちとの間を取り持ってくれと、頼んだ」と、正直に答えた。
「人間たちと、鬼たちを?」リシは驚いたようだったが、顔はほんの少し横に向けられただけだった。「それで、マトウ様は」
「やると言ってくれたよ」
「そうか」リシはまた前を向く。
「お前にも、同じことを頼む」リューシュンは、その背に言った。「大変なことだとは思うが、やってくれるか」
「――」リシは少し置いて「わかった」と答えた。

 

          ◇◆◇

 

 露台に、出る。
 月は大分低いところにまで降りてきている。
 ――もうすぐ、行くぞ。
 そう、心で呼びかける。
 無論、リンケイにだ。
 ――もしテンニが先にそっちへ行ったら、よろしく頼むぞ。
 そう心で告げてから、リューシュンは片眉をひそめた。
 ――ていうかお前、あの女の陰陽師と一体どうだったんだ?
 先程見た、マトウの取り乱した姿を思い出す。
 ――まさかお前が女と本気で争ったり貶めたりすることはないと思うが……まあ、今度会ったらゆっくり聞かせてもらうさ。
 ふう、と星の少ない空に向かってため息をつく。
 ――なんにしても、陽世でのことはうまくやってもらえそうだ……もしかしてこれが、お前の「助け」だったのか。
 陰陽師の、取りすました貌が浮かぶ。
 ――てことは、俺と知り合うずっと以前から、お前は俺を「助けて」くれてたんだな。

 

 どうだかな

 

 陰陽師の、苦笑交じりに呟く姿が浮かぶ。
 リューシュンは空を仰ぎながら、くすくすと笑った。

 

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葵マガジン 2020年01月25日号

  • 2020.01.27 Monday
  • 11:24

JUGEMテーマ:小説/詩

 

◇◆◇◆聡明鬼◆◇◆◇


第84話 問答(全100話)

 

 どうやって戻ったのだろう――
 目醒めて最初に見えた天井をじっと見つめながら、リューシュンが最初に思ったのはそのことだった。
 どうやって――そこが山ではないこと、さっきまで自分が山にいたこと、山に行く前は陰陽師マトウの邸にいたこと、それらは鬼の頭の中に残っていたのだ。
 だがその山から、今またマトウの邸――この天井はそこのものだ、それも頭に残っている――に戻ってきているが、その間のことを覚えていない。
 まったく、覚えていないのだ。
 リューシュンは、身を起こして寝台の上に座り薄暗い部屋を見つめた。
 つぎに視線を落とし、自分の手を見下ろす。
 前にも、そうしたことがある。
 すぐにそのことが、頭に浮かんだ。
 いつだったか――否、知っている。
 それは前に、誤ってスンキの心の臓を突き刺し殺してしまった翌日だ。
 その時は自分の邸の中にいて、今と同じように仰向けに寝ていて、目覚めた時最初に天井が目に映り、そうして自分は――
 今と同じように、身を起こし自分の手を見下ろした。
 そして――
 叫びながら突っ伏したのだ。
 リューシュンは目を閉じた。
 眦から鬼の涙が頬を伝い落ちた。
 今は叫ばない。
 突っ伏しもしない。
 だが泣こう。
 もう二度と――顔を見ることも、声を聞くこともできぬ友のことを惜しみ、泣くのだ。
 自分のせいだろう。
 他の仲間のせいだろう。
 もっと気をつけていれば、キオウとスンキは血となって流れることなどなかったはずだ。
 ごめんな。
 リューシュンが想うことのできる言葉は、それしかなかった。

 

          ◇◆◇

 

「聡明鬼さまに、食事を運びます」
 侍女がそう言う。
 廊下で、皿の乗った盆を運んでいるところに声をかけたのだ。
「私が行こう」リシは無意識のうちにそう口にしていた。
「あ……ですが」侍女は戸惑っていた。
「よい」リシは構わず盆に手を伸ばした。「少し、様子も見たいしな」
「あ、はい」侍女は下がり、頭を下げた。「ではお願い致します」
 盆を片手に乗せ、空いた手で扉を叩く。
 返事はない。
 それでもリシは、そっと少しだけ扉を開けた。
 眠っているのかも知れない、と思ったのだ。
 薄暗い部屋の中、一番奥側の寝台の上に、聡明鬼が座っているらしき影が見えた。
 そこからでは、大分大きな声でないと返事をしても扉の外まで届かなかっただろう。
「食事を持って来た」リシは奥に向かって言った。「入るぞ」
 影が、ゆっくりと首を持ち上げこちらを見るのがわかった。
 リシは、少しほっとした。
 食事も食べてくれるだろうと、思った。
 歩を進める。
「あの時と、同じだ」
 聡明鬼の声が、不意にそう呟く。
 リシは、足を一瞬止めた。
「同じ?」訊く。「何がだ?」
 聡明鬼は黙って、リシを見ているのかリシの持つ食事の盆を見ているのかわからぬ視線を送ってくる。
「あの時も、食事を運んでくれると言った」また、呟く。
「誰が?」リシはまた訊く。
「俺の……使用人がだ」
「――」リシは話がよく呑み込めず、言葉を返せなかった。
「いや」聡明鬼は構わず続けた。「あの時は結局、食事じゃなく茶を運んでくれたんだ」
「――」リシは返事ができぬまま食事を寝台の傍の卓上に置き、それから寝台の上に食事用の棚を取り付けた。
 作業の間、リシも聡明鬼も言葉を口にしなかった。
「食べられるか」棚の上に盆を置きながら、リシは訊いた。
「ああ」聡明鬼は小さく頷いた。「ありがとう」
「――」リシはしばらく立ったまま聡明鬼を見た。「大丈夫か」訊く。
「ああ」聡明鬼は再び頷く。
「――」リシは、どう言葉をかけるべきか考え続けていた。
 だがどう言えばよいのか、まるで思いつかずにいた。
「あれな」
 聡明鬼が、料理の皿を見下ろしながら静かに話し出した。
 リシははっとして聡明鬼の横顔を見た。
「打鬼棒、っていう、テンニの得物なんだ」
「――打鬼、棒」
「ああ。それに打たれた鬼は、血となって流れ、二度と戻れない」
「――」息を呑む。「な」
「投胎も、できない」
「そ」
「完全に、消えてしまうんだ」
「――そんな」今更のように、リシの体は震え出した。「やっと、出会えたのに」
 聡明鬼は口を閉じ、何も言わなかった。
「なんてことを」リシは歯をぎりっと噛んだ。「あの鬼」
「ああ」聡明鬼は目を閉じ、かすれた声で言った。「俺は、あいつを――許さない」
「私もだ」リシもすぐに続けた。
 リューシュンがそこで初めてリシを見上げる。
「許さない」リシは眉根を寄せて言った。「テンニ」
「うん」リューシュンが、少しだけ微笑んだ。
「――」リシは少したじろいだように視線をさ迷わせ「じゃあ、食べろ」と言い残して背を向けた。
「リシ」背後から聡明鬼の声が追う。
「――」リシは心臓を高鳴らせ、立ち止まった。「なんだ」首だけ振り向く。
「マトウと、話がしたい」リューシュンは告げた。「後で、部屋に案内してくれ」
「――」リシは目を丸くした。「マトウ様と? 何を」訊く。
 だが聡明鬼は答えなかった。「頼めないか」とだけ言う。
「――」リシは頭をはたかれるような感覚を味わった。「わかった」そう答えるしかできなかった。

 

          ◇◆◇

 

「思いのほか、大丈夫そうだった」
 リシからそう聞き、ケイキョとスルグーンは安心して部屋に戻った。
 だが扉を開けた時、彼らは今までに聞いたことのない声を――聡明鬼の声を、聞いたのだ。
「う……ぐ……く……」
 二足は目を見合わせた。
 聡明鬼が、自らの首を手で絞めているのかと同時に思った。
「聡明鬼!」
「旦那!」
 鼬と雷獣とは大急ぎで一番奥の寝台まで走った。
 聡明鬼はそこに座っていたが、しかし自らの首を手で絞めているのではなかった。
 寝台の傍の卓上には、空になった皿の乗った盆が移し置かれ、寝台から取り外された棚が下に転がされていた。
 聡明鬼は寝台の上で、自らの膝に肘を突き、掌に顔を埋め、声を殺して泣いていたのだ。
 その殺した声が、まるで自ら首を絞めているかのように――それほどまでに苦しげに、聞こえたのだ。
 鼬と雷獣は、何も言えず佇むしかなかった。
 苦しげに――実際苦しいのだろう――聡明鬼は泣き続けた。

 

          ◇◆◇

 

「聡明鬼さまが」マトウは言い、それから頬を手で抑えた。「私と」
「はい」リシは俯き答えた。「こちらに、後で案内するよう頼まれました」
「しかし、聡明鬼さまのお体は大丈夫なのか」マトウは心配した。「私が向かってもよいぞ」
「いえ、それには及びません」リシは顔を上げた。「体は無傷ですし、食事も……摂りました」見たわけではないが恐らくそうだろうと思い、話す。「こちらへ来るのに支障はないものかと」
「そうか」マトウは尚も心配そうな顔をしつつも「わかった」と頷いた。

 

          ◇◆◇

 

 リューシュンは、露台の手摺を持ち夜空を見上げていた。
 涙はもう乾き、呼吸も楽にできていた。
 ケイキョとスルグーンがずっとこちらを案じてくれているのが判る。
 心配するなと告げはしたが、それでも二足が心配することも判っていた。
 それを判っていながら、リューシュンは独り露台に出て夜空を見上げたのだ。
 ――リンケイ。
 心に、その名を呼ぶ。
 ――キオウが……いなくなった。
 心でそう話す。
 陰陽師の切れ長の目が愁いに満ちる様が浮かぶ。
 ――スンキも、一緒に。

 

 そうか

 

 陰陽師の唇がそのように動く様が浮かぶ。
 ――お前がいたら、あいつを救えたのかも知れないな。リンケイ。
 ゆっくりと瞬きをする。
 ――お前だったら、あいつに……キオウにムイの甕を渡してはならないと、俺に教えてくれたんだろう。そしてテンニの目論見を砕いたんだろう。

 

 さあな

 

 陰陽師の唇が、何故かそう答える。
 ――そうだな。今更何を言ったって、どうにもなりはしないよな。
 月は漸く半月と呼べるほどのものになり、輝きの力も半分は取り戻している。
 小さな星屑たちはその光に呑み込まれることを避けるかのように、離れた所でひそやかに散らばる。
 ――リンケイ。
 また、その名を呼ぶ。
 ――俺を……助けてくれ。
 陰陽師の、いつものように微笑む顔が浮かぶ。
 この問いにあいつは、何と答えるだろうか――

 

 俺が

 

 眉をひょいと持ち上げ、その唇が動く。
「聡明鬼さん」
 その時室の中から、鼬がリューシュンを呼んだ。「リシさんが、来やした」
 リューシュンは瞬きし、振り向いた。

 

「俺が今まで、お前を助けぬことがあったか」

 

 室に向かって一歩踏み出した時、そんな声が聞こえた。
 はっとして、振り向く。
 半月の懸かる夜空がそこにあるだけで、当然のことながら誰もいない。
 少しの間、リューシュンはその景色を見、それからまた振り向いて歩き出した。
 ――ああ。
 歩きながら、思う。
 ――確かに、そうだな……俺はきっと、大丈夫なんだ。
「大丈夫でやすか」
 ケイキョが訊く。
 その傍でスルグーンも、見上げてくる。
「うん。大丈夫だ」リューシュンは久しぶりに、腹に力を込めてその言葉を言った。
 それを聞いた鼬と雷獣が、やっと頷いた。

 

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ある日ポピーと彼女のライバル(?)である鬼魔(キーマ)のユエホワの前に、とつぜん白い光とともに一人のお姫さまが現れた。その人の名は、サルシャ姫──泡粒界という世界の王女だったのだ。サルシャ姫のいた世界は今、侵略者に乗っ取られ、大地も海も人々も瀕死の状態にあった。もしこのまま泡粒界がなくなったら、とんでもないことになる──ポピーは、泡粒界を救うべく立ち上がる決意をした。

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カエルとだるまさんがころんだ
カエルとだるまさんがころんだ (JUGEMレビュー »)
葵むらさき
「私」はその朝巨大なカエルに遭遇し、路上は命を賭した「だるまさんがころんだ」の戦場と化した──表題作ほか「さくらマーケット」「センチメンタル付属物」収録。女性主人公の、少しだけ不思議な日常世界を描いた短編集。

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喰らえ、取り敢えず
喰らえ、取り敢えず (JUGEMレビュー »)
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生態観察のため連れ去られた地球人たちに与えられた「食べ物」は、機能性重視の味気ないものだった。彼らは立ち上がった。「まっとうな」食物を求めて――やがてその欲求は、惑星の運命を文字通り、大きく揺さぶった――

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Dying for Diet
Dying for Diet (JUGEMレビュー »)
葵むらさき
麻由はそのイベントに参加することを決めた。ダイエット・バトル。絶対に優勝して、皆を見返してやる――そんな彼女の前に、謎の女が姿を現すようになった。恐ろしい顔――だがそれは、確かにどこかで見たことのある顔だった。表題作ほか「過食症」「レイア」収録。摂食障害をテーマにした三部作。

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